『平仮名本・因果物語』巻六「非分にころされて、怨をなしける事」より

山口彦十郎の亡魂

 高松藩主 生駒讃岐守高俊の家来に、山口彦十郎という侍がいた。
 彦十郎は、長年精勤してきたにもかかわらず、俸禄の加増がまったくなかったので、
「悔しいぞ。わしより後に用いられた者が、おおかた立身するのに、わしだけそのままだ。あいつら皆に越えられて、面白くないにもほどがある」
と不満を口にし、とうとう出仕をやめてしまった。
 讃岐守はたいそう腹を立て、彦十郎を捕らえて斬首するとともに、女房子供までも皆殺しにした。
 最期のときにいたって、彦十郎は激しく怒り叫んだ。
「お上のなさりように不平を申し立てたのは、身の覚えのある罪科だから、処罰を受けるのも仕方がない。しかし、何の罪もない妻子まで、なにゆえ殺さねばならぬのか。さらには、侍に切腹させず斬首にするとは何事か。この屈辱、堪えがたい」
 続いて後ろを振り向くと、首斬り役の横井二郎右衛門をはったと睨みつけた。
「斬り損なうな。見事に斬れよ。わが怨念に力あるなら、近いうちに徴(しるし)を見ることだろう」
 二郎右衛門が、
「うむ、承知」
と首を打ち落とすと、ニ三間ばかりころころ転がって、斬り口を下にして向き直り、相手の眼をきっと見据えてから、静かに目を閉じた。

 二郎右衛門は、家に帰るやいなや狂乱した。
 寝ても覚めても、彦十郎の首が血眼になって睨んでいる気がした。いつも目前に姿が浮かんで離れず、二郎右衛門は大声で喚きながら刀を抜いて、そこらじゅうを斬り巡った。家族の者は困り果て、なんとか刀だけは取り上げた。
 その後は、
「ああ、彦十郎よ。殿のご命令で、仕方なかったのだ。許してくれ、許してくれ」
と言って手を合わせ、足掻き狂って、七日目に死んだ。

 彦十郎の亡霊は、各所に現れた。
 生前のように袴肩衣で、両刀を差し、かつての朋輩の目に見えることが度々あった。これに行き会って、身がわなわな震えだし、そのまま病みついて、ほどなく死んでしまった者が、十四五人に及んだ。
 並々ならぬ怪事に驚き畏れた家中の者は、彦十郎の菩提を弔うことを願い出た。そうして供養が行われると、亡魂も幾分慰霊されたらしく、人の目に見えることはなくなった。しかし、長屋が思いがけず鳴動したり、城中の大木が風も吹かないのに折れて倒れたり、そのほか多くの怪しいことが、その後も続いた。
 讃岐守もいつしか邪悪な心が起こって、藩政乱れ、ついには改易の憂き目を見た。すべて山口彦十郎の亡魂の恨みだと、人々は言い合ったのである。
あやしい古典文学 No.814