上野忠親『雪窓夜話抄』巻之六「神隠しにあひたる人」より

神隠しにあった人

 筆者が京都在住のときのことだ。
 新町魚ノ棚通下ル町西側北より二軒目に、綿屋善三郎という者がいた。
 善三郎には兄がいて、名前は何といったか忘れたが、死人のように顔色が青ざめて、表情はうつろ、人とまったく会話せず、用便・飲食・その他自分の用事をするほかは何もしないという、たいへん怪しい人物であった。
 あるとき、
「兄上は病気なのか」
と尋ねると、善三郎は、
「ああ見えても兄は、年少のころは百人に優れて利発な者だったのです。ところが……」
 こう言って、なんとも不思議な話を打ち明けた。

「兄は、十五六歳のとき天狗に攫われて行方知れずになりました。父母はことのほか悲しんで、験力があると評判の僧に頼み、分不相応な大法秘法を行って、『どうかわが子が帰りますように』と諸神諸仏に祈りました。それまでわが家はまずまずの身代の町人でしたが、商売をやめてこのことに打ち込み、資産をつぎ込んだために、今のように町中に住むことも容易でない貧乏人になり果てたのです。
 しかし、そこまでして神仏に祈った効験でしょうか、三年ほど過ぎたある日、どこの国から帰って来たとも知れず、ふと家の内におりました。そのときには、昔の兄とはまったく変わって、ご覧のような人間の抜け殻で、生きているというだけの何の用にも立たない者になっていました。
 ただ、ここに一つ不思議なことがあるのです。時々、兄の寝部屋に珍客の入来があるようなのです。その客の姿は私どもには見えません。しかし、寝ていた兄がにわかに起き上がり、慌てふためいて、平生と大いに違った様子で『これはこれは、ようこそいらっしゃいました』と何度も拝礼し、まめまめしくもてなすのです。外から来た人の言葉は少しも聞こえず、兄が声高に物言うばかり。その言語は水の流れるようにさわやかです。やがて客が帰ったらしいとなると、兄はまた元どおり魂のどんより澱んだ、死人のような状態に戻ってしまいます。
 来客は夜中が多いのですが、昼のときもあります。あるとき兄が木履をはいて、客を送って門の外へ出て行ったことがありました。『何処まで行くんだろう。跡をつけてみよう』と付いて行きますと、その歩く様子は常人と同じで、さほど早足には見えないのに、どんなに急いでも三十メートル足らずの差を追いつけません。横川の方へ向かったのですが、山坂になると、木履をはきながら一足で十メートルも飛んで行きますから、追いつくどころの話ではありません。やがて一歩で四十メートルとも五十メートルも飛ぶようになって、ついに跡を追えなくなり、行方を見失いました。
 仕方なくそこから引き返し、日が暮れてやっと我が家に帰り着いてみると、兄はもうとっくに帰っておりました。これはまったく、天狗の所業でありましょうか。不思議なことでございます。」
あやしい古典文学 No.819