高力種信『金明録』第五冊より

全裸の逃亡者

 文化十二年十二月中ごろ、門前町で、二朱銀の贋金をこしらえて使った男が捕まったが、町役所での取り調べの休憩の間に、手鎖を脱けて逃走した。
 両替町から七間町を、魚の棚へと走った。そこで着物を脱き、全裸で伊勢町を下り、桜の町角の八百屋へ逃げこんだ。だが裏口から通り抜けできないと知ると元の道に戻って、大津町を下り、鍛冶屋町大下から田んぼ道に出て、御器所村へ走りこんだ。
 これを追う役所の捕方は、御器所村入口あたりですぐ近くまで迫ったが、村内で見失った。
 役人が一軒一軒しらみつぶしに調べているうちに、男は百姓家で肌着の干してあったのを盗んで羽織ると、村からまた田んぼ道へ逃げだした。さすがに疲れたか、道ばたに下ろしてあった肥桶から小便をすくって飲んで、そこから古渡の方へ走った。
 捕方は、男が村から出たのを見てあわてて追いかけた。しかし、伊勢山のあたりでまた見失い、それきり行方知れずとなった。
 役人衆に入江新屋敷の者どもも加わって大勢となり、手分けして捜したけれども分からなかった。その夜は古渡村・伊勢山の周辺一帯で、提灯を高く掲げて草の根を分け、あるいは神社の拝殿や空家の床板まではがしたけれども、すべて無駄だった。
 前代未聞の大騒動のあげく、ついに男は逃げおおせたのだろうか。他国へも役人を派遣して調べたが、杳として行方は知れない。

 なお、全裸で逃げるのは、後日見つからないためのまじないだそうだ。
 小便を飲んだのは、疲れのせいで水と小便の見分けがつかなかったのかと思ったら、これも、長く走るときに息切れしないまじないだとか。
 この逃亡者を翌日岡崎近辺で見かけて、役所に知らせた人がいたともいう。いずれ東海道の方へ行ったのだろうともいわれる。
 珍事である。
あやしい古典文学 No.826