鈴木桃野『反古のうらがき』巻之一「縊鬼」より

縊鬼

 麹町に屋敷をもつ組頭某の組内に、よく酒を飲み、落とし話や物真似などを得意とする同心がいた。
 春の日永の時分、組頭宅では同役の寄合があって、夕刻からは酒宴が予定され、その同心にも『接待の手伝いに来るように』と言って約束してあったのに、なかなか姿を見せなかった。
 皆がその芸を見るのを楽しみにして待っているのに来ないので、宴席がたいそう興ざめしてきたころ、やっと慌しく門をくぐって入ってきた。
「やむをえない用事が出来ました。今夜の手伝いは辞退させてください。門前に人を待たせておりますゆえ、これにて……」
 そう言ってすぐに立ち帰ろうとするのを、屋敷の家来が引き止めた。
「まず主人および客人がたにお伝えするので、その間、待たれよ。」
 同心は、大変困った顔をしながらも、従うしかないと思った様子だった。

 主人は家来の知らせを聞くと、
「お頭衆が集まって、先刻来ずっと待っていたのだ。たとえ断れない急用であっても、顔も出さずに帰るということがあるか。」
と怒って、無理に宴席へ呼び出し、何の用かを尋ねた。すると同心は、
「それというのが、ほかでもありません。食違御門内にて首を吊る約束をいたしましたので、やむをえず……」
と答えて、ひたすら退出したいと懇願した。
 主人も客も怪しんだ。
「どうやら乱心と見た。こういうときは、無理にでも酒を飲ますのがよい。」
 そこで座の中央へ引き出し、まず大杯で続けざまに七八杯飲ませた。
「これにてお許しください。」
と言うのを、さらに七八杯飲ませたところで、主人が声をかけ、
「例の声色をやってくれ。」
と所望すると、やむをえず一つ二つの芸を披露して、また退出しようとするところに、主人も客もそれぞれ盃を与えたから、見るからに酩酊してきた。

 主客とも面白がって、さらに代わる代わる酒をすすめながら様子をうかがっていると、二時間ばかりたった頃には、退出を請うことは忘れたようで、乱心のふうも見えなくなった。
 そのとき、家来がやってきて報告した。
「ただ今、食違御門内で首吊り自殺があったとのこと。人を出すべきでしょうか。」
 聞いて主人は、
「さては、人に取り憑いて首を吊らせる縊鬼というものが、この者を殺すことができなくて、ほかの者の命を取ったとみえる。もはやこの者の縊鬼は離れた。さあ、聞かせてくれ。おぬし、ここへ来る前、何があったのだ。」
 問われて同心は、
「はあ、まるで夢のようではっきりしませんが、食違門まで来たのは夕刻前でした。見知らぬ人がいて、『ここで首を吊って死ね』と言います。なぜか拒めない気がして、『わかりました。吊りましょう。しかし、今日は組頭のところで手伝いをする約束になっています。そちらをお断りしたうえで吊ります』と言うと、その人はこちらの門まで付いてきて、『早く断ってこい』と言いました。その言葉は、背きがたい義理があるもののように聞こえたのです。なぜそうだったのかは全くわかりません。」
などと話した。
「今も首吊りする気があるか。」
と尋ねると、首に縄をかける真似をしながら、
「恐ろしや、恐ろしや。」
と首を振った。
 皆、『先約を重んじたことと、酒を飲んだこととの徳によって命を助かったのだ』と言い合ったそうだが、こんなことも時にはあるものだろうか。
あやしい古典文学 No.834