阿部重保『実々奇談』巻之二「置いて行け堀の事」より

暴れこむ美少年

 江戸城呉服橋門近辺のさる大名屋敷内に、駕籠かきが詰めている部屋があった。
 その者らが大勢打ち寄って、
「今日は暇だから、釣りにでも行こうぜ。」
と一人が言うと、別の一人が提案した。
「なんでも、本所に『置いてけ堀』というところがあって、ことのほかよく釣れるそうだ。けれども、帰るときに魚篭(びく)を見ると、不思議なことに、釣ったはずの魚がみんな盗られて、一匹も残っていないという。そこでだ。今日はその『置いてけ堀』で釣るとともに、大勢で見張りを固めて、釣った魚を盗られないよう用心するというのはどうだろう。」
 それは面白いというので、十数人が釣竿・大きな魚篭を用意し、酒に肴・弁当を提げて出発した。

 道々『置いてけ堀』の場所を人に尋ねながら行って、ようやくたどり着いてみれば、さして大きな堀ではないけれど、葦や萱が一面に生い茂る中に水が青く澱み、なかなか物凄いところだ。
「さあ、釣ろう。」
 皆それぞれ葦原を押し分けて進んで釣り場を定め、糸を垂れるやいなや、たちまち針にかかる鯉に鮒。鯰や鰻さえ釣れるから、もう夢中になって、昼弁当を食うのも忘れるほどだった。次々に魚が放り込まれる魚篭には、二人ずつ交替で番人について、厳しく見張っていた。
 夕暮れが迫るのも気づかず釣りにふけるうち、何人かの者が、襟元がぞっとして何やら薄気味悪い気持ちになったので、互いに顔を見合わせ、
「これだけ釣ったら十分だ。はや日が沈む。もう終わりにして帰ろう。釣った魚を盗られないように用心しないとな。」
 一人が声をかけると、みな立ち上がった。
 魚篭は魚が溢れ出んばかりだったから、風呂敷で二重に包み、上に付木一束を重しに乗せた。二人でこれを差し担ぎ、大勢が周りを取り囲んで、無事に屋敷の部屋まで帰りついた。
 留守番の者が出てきて、どうだったかと尋ねると、
「おう、一匹たりとも盗られずに持ち帰った。」
と応え、それから、魚をさばく組・煮る組と手分けして料理し、酒席をととのえた。
、全員が大杯で酒を酌み交わし、その日の釣りの手柄話などを自慢しあい、歌って踊って大騒ぎ。夜が更けるまで呑み続け、順番に酔いつぶれて、前後も知らず打ち伏した。

 真夜中過ぎであろうか。森閑とした夜を驚かして、誰かが激しく窓の戸を叩いた。
 窓近くで寝ていた者が目を覚まし、窓を開けて見たら、一人の美少年が立っていた。夜の闇ゆえ衣服まではよく見分けられないが、この屋敷の者とは思えない。何事かと咎めると、
「いささか用事がある。この窓を抜けて入るぞ。」
と言う。
「いや、ここは格子があるから入れない。外を回って来い。」
と窓を閉めようとした手が、美少年にやにわに掴まれた。
「どうでも、わが思うままにここから入るのだ。」
 そう言って引っ張る力の強いことといったら、駕籠かきの腕力をしてもとても及ばない。痛みに耐えかねて懸命に引き戻すと、そのはずみで格子を抜けて跳び込んだ美少年は、酔い伏す者らの顔やら咽喉元やらを、手当たり次第にばりばりと掻きむしった。
 みんな目を覚まし、
「変なやつが入った。」
「暴れ者だ。」
「どこだ、どいつだ。」
「おまえか、このやろ。」
 各人が暗がりで右往左往して、むやみに棒や箒を振り回すものだから、だんだん仲間喧嘩のようになり、しまいに大声をあげての騒動に及んだ。
 騒ぎは外へも聞こえ、徒目付(かちめつけ)ほか屋敷の役人が駆けつけて、駕籠かきたちを取り押さえたが、だれもかれも狂気のごとく暴れ、あらぬことを口走っている。わけが分からないまま、ひとまず縛り上げておいた。

 翌朝になると酔いも醒め、駕籠かきたちは『おれたち、なんで縛られたんだろう』と、不思議そうに目と目を見合わせた。
 話を聞いてやって来た部屋頭などは、前日に本所の『置いてけ堀』で釣りをしたことから夜のことまでの委細を聞いて、『これはまったく、堀の主の報復にちがいない』と驚き恐れたのだった。
 この後、部屋頭から上役へ詫び言して、一件落着したという。
あやしい古典文学 No.839