進藤寿伯『近世風聞・耳の垢』より

顔を舐める大きな婆

 宝暦六年九月末ごろの某日、天野平左衛門方に、浄瑠璃語りの茂七と三味線弾きの浪市が来てひとしきり演じ、その夜、二人は表座敷と奥との間の六畳間に宿泊した。
 真夜中に茂七が起きて、便所へ行こうと縁側へ出たあと、部屋の中から浪市の声で、
「わるさはやめろ。」
と何度も言うのが聞こえた。
 茂七が障子を少し開けて中を覗き込むと、大きな婆が浪市の顔を舐め回していた。茂七は婆の顔をまともに見て、その恐ろしさに思わず目を伏せ身震いした。
 ようやく再び目を上げたときには、婆の姿は消え失せて、正気を失った浪市だけが横たわっていた。

 大声で人を呼ぶと、家の者が奥から大勢出てきて、薬など与えて介抱した。
 やがて意識が戻った浪市は、
「茂七が嬲るのだとばかり思っていた。」
などと語った。
 浪市の顔には一面に掻き傷がつき、出血して、しばらく難儀したそうだ。
あやしい古典文学 No.843