荻田安静『宿直草』巻四「山ぶし忍びものをおどす事」より

怒れ山伏

 諸国を巡って修行する山伏がいた。
 あるとき、里から遠く離れたところで日が暮れて、鬼に一口に食われそうな夜の山道を見分けもつかず迷い行くと、住職のいない四面荒れ果てた仏堂にたどり着いた。
 入ってみると、中はいちだんとひどい有様だ。雨漏りし放題の破れた屋根から、流れ込む霧が香を焚いたように立ちこめていた。崩れた扉の隙から、月が変わらぬ光で照らすのが見える。
 と、そのとき、向こうに灯火が一つ現れた。こちらに近づいてくる。この夜更け、こんな寂しいところに、何者が来るのか。『恐ろしや。ここはひとまず身を隠そう』と、山伏は柱を登り、天井へ上がった。

 やって来たのは、行灯を提げた綺麗な女だった。
 山伏がいよいよ恐ろしく思っているのをよそに、女は堂の一隅を掃き清め、携えてきた薄い布団を寝やすそうに敷いた。それから小櫛を取り出して身づくろいしながら、誰かを待つ様子でいた。
 やがて、両刀を差した人品いやしからぬ男が、無言でぬっと入ってきた。女が喜び顔で、
「遅いじゃないの。私のことはどうでもよかったの?」
などと恨みごとを言って甘えると、男も、
「宮仕えの悲しさよ。生簀で飼われる鯉と同じで、身も心も思うに任せない。待つ身も待たれる身も、包んで包みきれない花の香の洩れるのを、袖で押し隠そうとする苦しさは変わらないのだ。そんなに恨みごとを言わないでおくれ。」
と謝ってみせる。すっかり慣れ親しんだ仲と見えた。
 山伏は、『さては、ここを逢引の場所と定めて、たまの忍び逢いを楽しもうというのだろう。しかたがない。好きにさせよう』と覚悟して、天井で身を潜めたままでいたが、そうとは知らない二人は、袖を重ねて抱き合って、いよいよ気分が盛り上がった。脱いだ衣を敷き重ね、待ちわびたこの時とばかり、心も髪も解け乱れ、時を忘れ、汗にまみれてからみ合う。
 二人の行為は、いつまでも果てしなかった。じっと我慢の山伏だったが、だんだん腹が立ってきた。ひどく愚弄されているような気がして、とうとう怒りが爆発した。
「おまえら、たいがいにせんか!」
 天井に持ち上がっていた荷物の包みを二人めがけてどっと投げ落とすと、思いもかけない出来事に肝をつぶし、裸のまま慌てふためいて逃げまどう。それに追い討ちをかけて、鬼のごとき声を出し、天井板を踏み鳴らして脅したからたまらない。二人は堂を飛び出すと、後も見ず一目散に駆け去った。

 山伏は、二人が残した衣や道具を我が物とし、『こうなってみると、またとない良い宿だったな』とほくそ笑みつつ、その仏堂をあとにした。
あやしい古典文学 No.855