天野信景『塩尻』巻ノ六十八より

不忍池の悪霊

 不忍池は、慶長の頃から、当時常陸下館城主だった水谷家の別荘に属していたが、幕府による東叡山寛永寺創建のさいに寄付された。
 その後、池のはたに少しずつ家屋敷が建って、そこに山名勘十郎という、据物斬(すえものぎり)で世を渡る者も住んだ。
 勘十郎の母は、顔かたちは美しいけれども心猛々しい女で、
「人の生首を見ないと食が進まない。」
と言って、勘十郎が刀の試し斬しに用いた人の死骸を、いつも食膳の傍らに重ね置かせるなどしたので、さすがに息子ももてあましていた。

 あるとき勘十郎の母は、下僕らに駕籠を用意させて乗った。
 江戸城の西側を回って、山王の西にある溜池まで行くと駕籠を降り、皆に『もう用はないから帰れ』と命じた。
 不審に思った者たちが、帰るふりをして近くに隠れ、様子をうかがっていると、にわかに空かき曇って、どっと夕立が降りつけた。雷電が縦横に閃めき、池水は凄まじく波立った。慌てて池のはたまで駆けつけたが、そこに女の姿はなく、辺りを探しても見つからなかった。
 やむなく屋敷へ帰ってありのままを報告していたとき、向こうから人を乗せた馬が駆けてきた。なんと、乗っているのは勘十郎の母だ。声を上げて走り出た人々を尻目に、馬は屋敷の前を素通りして、そのまま不忍池へと飛び込んだ。大波が起こり、路は一面あふれた池水に浸かった。
 そこへ今度は男が一人、息を切らせて走ってきた。さっきの馬の持ち主で、浅草の馬子だという。
「わっしが赤坂溜池あたりを通りますと、怪しい女が水中から浮かび出て馬を引きとどめ、『我をこの馬に乗せよ』と言ってひらりと跨りました。『どこへ行きなさるのか』と問うと、『我が生まれ里はこの辺りゆえ、この池の主になるつもりで飛び込んだところ、先に主になった鯉がいて、追い払われた。仕方がないから、住み慣れた家近くの不忍池へ入ろうと思うのじゃ。連れていけ』。言うやいなや馬を馳せ、わっしはついて行けず、やっとここまで追ってきました。さて。あの女はどうしましたか。」
 人々は恐ろしさに身を震わせながら、
「それなら、さきほどこの池に……」
と指さし、口々に騒ぎあった。

 その後、不忍池には時々怪異のことがあったので、勧学院の了翁僧都が島を築き、弁財天を安置して悪霊を鎮めようとした。
 ところが地震が起こって弁天堂の鐘楼が倒れ、鐘は池中深く沈んだ。安房の海士(あま)を潜らせて探したが、池底一面に泥深くて見つけ出せず、この鐘もまた例の悪霊が奪ったのかと噂された。
 了翁僧都が一切経を島に安置して後は、怪しいことはなくなったという。
あやしい古典文学 No.863