森春樹『蓬生談』巻之二「天ヶ瀬の助左衛門に猿恩を報し事」より

猿を撃った話@豊後

 豊後日田郡湯山村の天ヶ瀬温泉に、助左衛門という老人がいた。
 湯山村の川上に市の村という集落があって、そのあたりの山には昔から猿が多い。あるとき助左衛門は、山の下を流れる川に集まる鴨を撃とうと、市の村へ出かけていった。
 冬の厳しい寒さの日で、雪もちらちらと舞った。見れば、川の真ん中の石の上で、大きな猿が凍え震えてうずくまっている。身が冷え切って、もはや流れを渡る力がないようだ。
 助左衛門は水に入り、猿に近づいた。
「助けてやるから、おれの背につかまれ。」
 猿は聞き分けたのか、すぐに背中に取りついたので、背負って岸まで戻った。地面に下ろしてやると、猿はやっとのことで歩いて、林の中へと入っていった。

 それから七、八年も過ぎたと思われる年のことだ。
 助左衛門は人に頼まれて、猿を一匹撃つことになった。山を歩き回り、おりあらばと心がけたが、猿たちが警戒して近づけなかった。
 むなしく二十日ばかり経ったある日、多数の猿の群れが遊んでいるのに出くわした。
 鉄砲で狙うとたちまち散り散りに逃げ去ったけれども、ことに大きな猿が一匹だけ、岩の上で身を乗り出すようにして動かなかった。不審に思い、銃を見せて、
「撃つぞ。」
と言ったが、やっぱり動かない。
 そのときふと、昔助けた猿の記憶がよみがえり、いったんは銃を下ろして帰ろうと思った。しかし、そのころの助左衛門はあまりにも窮乏していて、銭の欲しさに心が迷い、結局、その猿を撃ってしまった。

「わずか七、八百の銭のために無情なことをしたものだと、今も折々思い出す。あれはまちがいなく、前に助けた大猿だったよ。」
と、助左衛門がみずから語った話である。
あやしい古典文学 No.866