青葱堂冬圃『真佐喜のかつら』二より

箱根の怪便所

 畑中西山は、大岡雪峰の高弟で、花鳥を描くのに妙を得た画家である。西山の兄は春嶽といって、書をよくする。
 かつて私は、西山とともに箱根の温泉に遊んだ。
 まず宮ノ下の「奈良や」という宿に泊まった。土地の長(おさ)を務める家だとかで、建物も立派なら、もてなしもことのほか丁寧だった。座敷から見渡せる景色も申し分なかったので、しばらくはそこに滞在して温泉に浴した。

 ある夜、入浴の戻りに便所へ行き、戸を開けようとすると、人が入っているとみえて中で咳払いをする。それではと隣の戸を開けようとすると、これまた人が入っているらしい。その次の戸を開けようとしても、また同じだ。
 そうするうち、西山も用便に来た。二人で待っているうちに、ほかの人も三人四人と来たけれど、用を足し終えて出てくる者は一人もいない。
 あまりのことに我慢できず、気の短い人が力ずくで戸を開けたところ、中には誰もいなかった。そこで皆で左右の戸を開けたら、やはり人は入っていなかった。
 なあんだ、と思いつつ恐ろしい気もして、そこそこに用を足して座敷へ戻った。
 翌日、宿の主人に話したが、主人は、
「山の中ですから、おりおり、そんなことがあります」
と、平然としていた。
あやしい古典文学 No.873