森春樹『蓬生談』巻之二「天狗牛に乗て遊ぶ事有事」より

天狗 牛に乗る

 天狗が牛に乗って遊ぶことがあるらしい。
 先年、豊前下毛郡山国谷の一ツ戸というところの牛が不意に姿を消したが、七、八日を経て、某山の高い岩の上に居ると知らせてきた人があった。
 行ってみると、筍(たけのこ)の如く屹立した二十メートル近い高さの巌(いわお)の上の、少し平らになった場所に牛が立って、ときどき叫ぶように啼いていた。
 急ぎたくさんの荷縄を用意し、六、七人が苦労して巌に登って、牛を動けないように縄でからげてから、静かに下ろした。
 牛は、全身はなはだ疲れた様子だったけれども、傷は一か所もなく、数日養生して元どおりになった。

 こうしたことは、山中の村々で時々ある。
 かつて筆者が、黒嶽の東の麓にある直入郡の阿蘇野村を通ったとき、四、五人の村人が子牛を追い回して捕まえるのを見て、わけを問うと、
「二、三日前、こいつの母牛が嶽の方へ狂い出て、いまだに帰らないので、母を捜して暴れて騒ぐのです」と言う。
「どうして母牛は狂い出たのかね」と尋ねると、
「この辺では五年から十年に一度あることで、ふつうは五、六日、長くても十日も過ぎれば帰ってくるんですが、とうとう帰らないこともあります。嶽の天狗が乗って遊ぶと言い伝えて、捜しても見つけることは出来ません」とのことだった。

 そういえば、わが日田郡津江山の栃原村にある兵藤山は高山で、木こりでもその中腹までは行き着けず、わずかに猟師が行くだけだが、そんなところで時々、馬糞が見つかる。まれには馬のいななきも聞こえるという。
 これは、昔からそんな深山に棲む馬がいるのか、もしくは天狗が攫った馬に乗って遊ぶのか。
あやしい古典文学 No.874