森田盛昌『続咄随筆』下「春日山の怪」より

春日山の怪

 宝暦二年のことである。金沢の勘解由殿町に住まいする、轡職人の卯平という人が、飲み友だち四、五人を誘って、花見に出かけた。
 弁当や酒を入れた小筒などを下僕に担わせて、桜の名所の春日山へ行ったが、花をめでたいのは誰しも同じ、麓はまるで市中の雑踏のごとき騒々しさだった。
 「どうも落ち着かんな。もっと静かな場所へ行って、心おきなく酔おうよ。」
という話になって、敷いていた毛氈を畳んでまた下僕に持たせ、山道を登ったのは午後三時過ぎだったであろうか。
 少し窪んだ木陰を見つけて、毛氈を敷きなおした。酒の小筒を取り出し、うららかな春の雰囲気に乗じて飲み合うと、いい気分に酔いが回った。気がつけば、西に傾いた日が薄らみかかっている。

 「では、そろそろ……。」と、小筒をしまいなどしているときだった。
 どこから出てきたのか、花色木綿の綿入れを着て古紬島の帯をした六、七歳の小児が、慌しく人々の目の前を駆け抜けた。
 「黄昏どきに子供が一人で来るような場所ではない。連れてきた人の姿もないから、きっと迷子だろう。」
 「かわいそうに、連れ帰ってやろう。」
 「おおい、そこの子。どこへ行くんだ。待て、待て。」
 しかし、いっこうに聞こえないようで、子供は山奥さして走りゆく。下僕が後から追いかけたが、その速さは矢を射るようで、まもなく見失って、興醒め顔で戻ってきた。
 人々もなんとなく気味悪くなった。それで、手早くそこらを取り片付けて、帰路につこうと立ち上がったところ、にわかに鼻を突き抜けるような強烈な臭気をおぼえた。
 「なんだ、これは!」
 あたりを見回すと、さっきまで皆が座っていた松の根のすぐ後ろに、いつ死んだとも知れぬ腐乱しきった小児の死骸が横たわっていた。花色の綿入れ、古紬の帯、裾模様が春草に駒であるところまで、先ほど見た子供の着物に少しも違わない。
 皆ぞっと総身の毛穴が開き、頭から水を浴びたようにおののいて、恐ろしさに振り返ることもできず、ひたすら足を空にして逃げ帰った。

 『それにしても不思議なことだ。』と気になった卯平は、翌日、別の下男をその場所へ見に遣った。
 やがて戻って言うことには、
 「何の変わったところもございませんでした。ただ、松の枝にこんなものが掛かっておりました。」
 下男が持ち帰ったのは、小さな数珠であった。
あやしい古典文学 No.893