橘崑崙『北越奇談』巻之四「怪談其五」より

メシがねえぞ

 越後の国の地蔵堂の西、円浄湖のほとりに、七ヶ村というところがある。
 その村の農夫某が、晩秋のある夜、家人がみな寝たあと独りで縄を綯(な)っていた。
 夜はとうに更けて、はたはたと窓に雨の降りかかる音がひとしきり聞こえ、それが止むと、家の内がもの凄いまでの寂寥に包まれた。
 農夫は背筋が寒々とするのをおぼえて、綯いかけの縄を投げ置き、寝間に入って横になった。

 翌朝早く起きて見ると、箕(み)に一杯分ほどの見なれない青と黄の木の葉が積もっていた。
 某は『どうしてこんなものが?』と首をひねったが、そのとき女房が飯を炊き上げたので、家族みな集まって食おうとしたところ、
「あれえ、メシがねえぞ」
 釜の中の飯が、一粒残らず消えていたのである。
 それ以来、飯を炊いても炊いても、人の口に入る前に何ものかが喰い尽くしてしまうのだった。どんなにうまく隠しても無駄だった。なにぶん目に見えないことなので、手の施しようがなかった。

 そんなことが数日続いて、家にいたのでは全く飯が食えない。
 仕方がないので一家そろってよそに移り、一月あまり空家にしておいた。その後帰って飯を炊くと、怪はすでに去って、無事に食うことができた。
 木の葉にまぎれて来て人の食物を貪ったのは、いったい何だったのか。あまりにも不思議な出来事である。
あやしい古典文学 No.897