『諸国百物語』巻之二「遠江の国見付の宿御前の執心の事」より

見付の女

 京都から東国へ下る男が、遠江の見付の宿に泊まった。
 夜の更けた頃、隣の座敷から小唄をうたう女の声が聞こえてきたが、その声はなんとも美しく優しくて、ただ聴くだけではおられないほどだった。
 男が、心惹かれるあまり、隣の間へ忍んで行くと、なぜか灯火もともしていない。不思議に思いながら声をかけた。
「こちらにお泊りの方は、どのようなお人でしょうか。私は都の者でございますが、これほどに麗しい音曲は、京の都でも耳にしたことがありません。とうてい我慢できず、参ったしだいです。これも、ひとえに仏神のお引き合わせかもしれません。もしおそばに添寝をお許し願えるなら、夜どおし親しく語らいましょうぞ」
 すると女は、
「いやしい私のような者に、どうして都のお客さまのお相手ができますものか」
と、さも可憐な声で、恥ずかしげに応えた。これで男はいよいよ心を奪われ、ほとんど我を忘れた。
「なぜ、それほどまでに遠慮なさる。私はいまだ定まった妻をもたない身です。このうえは二世の契りも交わしたい気持ちでおりますものを」
「まことにそうお思いなのですか。では、わたしを生涯の妻とすると、神かけて誓ってください。そのうえは、なにもかも仰せに従いましょう」
 お安い御用とばかり、男は誓った。日本国中のあらゆる神を誓言に入れ、畏れ多い言葉を連発してさまざまに口説いたから、女もしだいに心を許して、そのまま一つ床に添い臥すと、何度も夢中で交接した。

 明け方になって、ふと我に帰った男が、朝の光に浮かぶ女の顔を見たら、それはなんとも醜い瞽女(ごぜ)だった。
 『これはヒドイ』、思わず腰を浮かせた勢いで立ち上がり、宿の主人に声もかけず、男は脱兎のごとく外へ逃げ出した。
 『東へ向かえば、きっと後から追いかけてくるだろう』と思い、引き返して京都の方へ走り、やがて天竜川の渡しに到って、『ここまで来れば大丈夫』、ほっと息をついて振り返れば、
 おお、なんと!
 街道に砂塵を巻き上げて、見付の女が追ってくる。
 うろたえた男が、渡しの船頭に脇差と金子十両を差し出して、
「どうかあの瞽女を斬り殺して、川に流してくだされ」
と頼むと、この船頭がまた悪いやつ、二つ返事で引き受けて、瞽女をバッサリ斬り倒すと、なんなく天竜川の深みにたたき込んだ。
 男は喜んで道を急ぎ、日が暮れて着いた宿場に宿をとった。

 夜半ごろ、何者かが宿の門をせわしく叩いた。
 主人が出てみると、この世のものではない凄まじい女で、
「やい、亭主。ここに泊まった都の男に会わせろ」
 主人は身の毛がよだって、
「いや、このうちに客はおらん」
と言うやいなや、門の戸を閉ざした。
 すぐに客の男を土蔵に隠し、さりげない様子にしているところへ、女が門戸を蹴破って入り込んだ。ここかしこと探しているようだったが、やがて蔵の内から、
「うわぁ」
という声が聞こえた。しかし主人は、恐ろしさのあまり身動きもできなかった。
 夜が明けてから土蔵へ行ってみると、男は二つ三つに引き裂かれて無惨に死んでいた。
あやしい古典文学 No.898