神谷養勇軒『新著聞集』第九「蛇童子をくらひ家族悉く滅す」より

一族滅亡

 伊予国宇間郡竜ノ池の庄屋であった竜池忠右衛門の屋敷は、大昔、竜が棲んだ淵だったといわれる。それゆえ今でも周囲が二抱えほどの小さな池があって、常に水をたたえ、日照りが続いても干上がることがない。

 寛永十五年七月十五日、恒例の行事で、村じゅうの者が竜池屋敷の庭に集まって踊ったが、その最中、何があったのか忠右衛門夫婦が喧嘩を始めて、忠右衛門は腹立ちがおさまらず、まだ宵の口だというのに奥の間へ入って、八歳になる子を抱いてふて寝した。
 しばらくそうしていると、突然、子が激しく泣き出したので、驚いて体をまさぐると、何ものかに片腕を呑まれていた。忠右衛門はとっさに、そのものの喉とおぼしき所を掴んで握り締め、大声で助けを呼んだ。しかし、みな踊りに興じて誰も気づかない。
 ずいぶんしてから人々が駆け込んできて、子を呑もうとしているものをさんざんに斬りつけた。斬られるにしたがって、そのものは次第に広がり、しまいには座敷いっぱいになった。明かりをともして見たら、大蛇であった。
「こんなものが、どこから入ったのだろう」
 調べてみると、床の間のわきにミミズが出入りするくらいの小さな穴があった。また、池のはたの砂の上に、這い出た跡であろうか、細い筋があった。

 このことがあってまもなく、忠右衛門は死んだ。
 引き続いて、忠右衛門の兄弟、その子、伯父伯母、従兄弟にいたるまで、一族七十余人が次々に死んだ。
 一族の一人の「此都」という名の座頭だけが、当時十八歳で、からくも死を逃れた。この話は、此都が阿波国へ来て語ったものである。
あやしい古典文学 No.913