森春樹『蓬生談』巻之五「狂気せし女久しく山に在りて山姥の如く成りし事」より

万年山の女

 天保二年の今年から数えて、三十六七年前、筆者の弟の藤右衛門がまだ幼名で、新太郎といった頃のことだ。

 弟は、わが家の支店のある玖珠郡小田村へ行き、数人連れ立って、村の上の万年山(はねやま)に登った。
 山中に「すうが穴」という大きな洞窟がある。それを見ようと、穴の少し上の場所まで行ったが、そこからの道がたいそう険しい。子供には危ないからと、弟ら二三人をその場に残して、供に付いてきた万吉および村人で案内役の源吉と下男の三人が、まず穴に入った。
 穴は、入り口のあたりは広いが、すぐに狭まって曲がった。その先の暗がりに、なにやら人のごときものが背を向けて立っているのを見て、みな思わず「わっ」と声をあげて穴から飛び出した。
 源吉と下男が「もう帰ろう」と言うのに対して、万吉は生まれつき肝の太い男で、「何者か見定めずに帰ってたまるか」と、しり込みする二人を促し、穴に引き返した。
 今度は暗がりに怪しい影がなく、三人が「さて、どこへ行った」などと言い交わすとき、奥の岩陰からひょいと顔を出してこちらを見ては、また隠れる者があった。乱れ放題の髪に覆われていたが、たしかに人の女だった。
 穴から出て入口付近を調べると、草が踏み分けられ、岩の上にも通り慣らした跡があって、たえず人の出入りがあると分かった。
 村へ帰って、店の者にこの話をしたところ、嘉兵衛という年寄りが事情を知っていた。
「その女はきっと、阿蘇郡小国の万願寺村の徳兵衛という、当家にも借金などある者の娘ですよ。同じ小国の北里村へ嫁に行き、その家で気が狂って、山に駆け込んで行方知れずとなりました。
 この村の高取の與右衛門は婚家の親戚で、『噂では万年山にいるらしい。嫁を見つけたら知らせてほしい』と頼まれていたが、あるとき山中で捕らえて連れて下り、汚れきった着物を脱がせて洗濯桶に漬け、別の着物を着せて、飯など食わせてから寝かせました。ところが女は、夜のうちに姿を消したのです。着せられた着物を脱いで畳み置き、自分の着物を水から引き上げて絞り、それを持って何処へともなく逃げ失せたそうです。その女にちがいありません。」
 聞いて皆も、なるほどそうかと合点したのだった。

 その後、女は、隣村の菅原村に二度ほど、蔦でくくった鹿の肉を持って来て、「焼いてくれよ」と頼んだ。これが噂に聞く狂女かと思って、さして恐れることもなく焼いてやると、それを食いながら去っていった。
 そのときは、すでに着物も破れちぎれて、肩に掛かるか掛からないかといった状態だったという。
 さらに十数年後、筆者が小田村の支店に行って静養していたとき、村の名主の永八から、かつての万年山の女の消息を聞いた。永八は小国の生まれで、正月に郷里を訪ねて耳にしたことを、次のように語ったのである。

「むかし新太郎さんのお供で、この村の源吉らが山へ行って、岩穴で見たという女は、今も存命で、遠方にいるようです。
 どういうことかといいますと、熊本の飛脚を勤める足軽二名が、去年の冬に薩摩の鹿児島まで手紙を届け、返事を受け取るまで何日か暇があったので、有名な霧島山に参詣しようと思い立ちました。麓の宿の主人に案内を頼み、銃なども持たせて登っていくと、山中の岩の上に、赤い髪を振り乱し、全身が渋紙のような色つやの、人のごときものが腰を掛けています。驚いて銃で撃たそうとすると、その者は言いました。
『撃つでない。たとえ撃っても、我が身に弾は当たらず、そのほうたちに当たるぞ』
『何者か』と問うと、
『こう見えても人間だ。そのほうたちは旅人と見えるが、どこの者か』と訊き返し、
『熊本の飛脚である』と言うと、少し嬉しそうにして、
『近くへ来られよ。恐れることはない。我も元は熊本領内小国の万願寺村の者だ。北里村へ嫁して乱心し、山へ入ってからどれほどになるか分からない。あちらの山こちらの山と巡り棲んで、この山へ来てからも六七年が過ぎたろうか。前々は食い物にも不自由して、はなはだ難儀なことであったが、今は立身して、自由にほしい物が食える身分になった。さて、そのほうたち、飛脚ならば宮ノ原の役所へ行くこともあるだろう。我がこうしていまだ存命しておるということを、必ず宮ノ原の人に告げてくれ。そうすれば、すぐに北里にも万願寺にも伝わるだろうから』と。
 近くに寄って見ると、その者は全身に荒々しい赤い毛がまばらに生えていているばかりの裸体でした。
『立身とはどんなことか。天狗に仕えているのか』と問うと、
『まあ、そんなようなものだ。だが、それについては語るまい』と言って去った、と。
 年始の飛脚が宮ノ原の役所へ来たさい、この話をしたそうです。」
あやしい古典文学 No.919