森春樹『蓬生談』巻之五「岡城下町鳴瀧忠八犬神を握り殺したる事」より

握り殺す男

 犬神は諸国にある。中国地方・四国地方にはとくに多いと言われる。わが豊後の臼杵・佐伯あたりでも、今なおある。
 筆者が先年、岡城下の支店で酒造りに携わったとき、隣家に、若い時分は相撲で名を知られた鳴瀧忠八という人がいた。そのころは五十歳くらいで、藩の盗賊方を務めており、あるとき、自分が体験した犬神の奇事を語ってくれた。

 忠八はかつて、直入郡の下田北というところへ役向きの取り調べに赴き、不審な六部僧を呼び出して、あれこれ尋問した。ところが六部僧は不敵者で、まともに受け答えせず無礼な振る舞いに及んだから、忠八も怒って、十手で殴りつけて追い返した。
 その翌年、やはり役用で別府へ行って、地元の目明し三十郎の店で酒を飲んでいたところ、どこかで見たことがあるような旅人が、酒と肴を持ってきて忠八に差し出した。
「どこの誰とも知らぬ者が、なにゆえこんなことをするのか」
と訊くと、旅人は応えた。
「そのことでございます。じつは去年、下田北にてお目にかかりましたが、こう言っただけでは分かっていただけまい。下田北からお帰りになった夜のことは、覚えていらっしゃいますか」
「ううむ、そうだなあ……。ああ、少し思い出した。あれはいったい何だったんだ?」
 すると旅人は、居住まいを正して、
「はい、私は犬神を使って世を渡る者ですが、去年、豪傑のあなた様とはつゆ知らず、大変なご無礼をいたしました。そのお詫びに、酒肴を持参したのでございます。どういうことかと申しますと、あなた様に殴られたのを心外に思い、あの夜、二匹の犬を仕返しに行かせました。二匹ともしり込みするのを、叱って無理に行かせましたところ、手ひどく痛めつけられて、ようよう逃げ帰ったものの、ついに一匹は死んでしまいました。あれは私の心得違いでございましたので、今日、お詫びを申し上げるのです」と。

 下田北から帰った夜の忠八は、途中で飲んだ酒にいつになく泥酔して、我が家の上がり口に打ち伏した。女房が枕をさせ、布団を掛けて、しばらくの後、ぶるぶると物に襲われたようになって必死で木枕を掴み潰し、頭を上げて目覚めた。
「夢を見た。水をくれ。……それにしても変な夢だった。寝ているわしの足もとから、鼠ほどの小さい犬が布団の下に入り込もうとするんだ。そいつを踏みのけ踏みのけするうちに、別の赤い犬が襟元に来た。それを引っ掴んだつもりが、この枕を掴んでいた。もう一匹の犬は白かったよ」
 このように女房に話して、それっきり忘れていたが、別府で旅人の懺悔を聞いて、はじめて事情が分かったのだった。

 さて、しかし筆者は疑問に思う。
 犬神は犬の精魂だそうだ。精魂もまた、死ぬことがあるのだろうか。
あやしい古典文学 No.927