森春樹『蓬生談』巻之五「伏木村の民の小児夜怪物にとられて遥後恨を云ひし事」より

小児失跡

 豊後の日田郡伏木村は、豊前下毛郡との境にあたる。高い山上にある村だ。
 筆者が若年のとき、この村の人に六七十年前の出来事として聞いた話がある。

 某家の四歳になる男児があまりに夜泣きするので、母親が、
「そんなに泣くと化け物にやってしまうよ」
と叱って外に出し、木戸のあたりに置き去りにした。
 戸を閉めてから様子を聞いていると、泣き声がしだいに遠ざかるようだ。さては隣家へ逃げていくのかと思っていたら、そうではなく、村を過ぎる街道を横切って田の上の宙を飛び行くらしい。
 あわてて夫とともに走り出て、もはやよほど遠くなったのを追いかけた。しかし、泣き声ははるか向こうの山を越え、夜空の彼方いずこへ行くのか、ついに声も聞こえなくなった。
 近所の人々も聞きつけ、手に手に松明をともして捜し求めたけれども、近くには見当たらない。夜中の寒い時節でもあるので、皆で相談して、『明日、あらためて捜そう。見つかるまで手を尽くそう』と決めた。
 翌日より、近村からも加勢を得て、村の周囲二三里の峰々をくまなく調べ歩いたが、二日たっても三日たっても、まったく行方は知れなかった。
 両親は、『つまらぬ懲らしめをしたせいで、大事な我が子をなくしてしまった』と嘆き悲しみ、失跡した日を命日として、毎年、法要をいとなんだ。

 そうして二十年ほどが過ぎた。
 伏木村の男が二三人連れで、東豊後のほうへ荷馬を引いて行った帰り、玖珠郡と速見郡の境の「切ふたぎ」という人里離れたところで、崖に腰かけて弁当を食っていると、生い茂る芒の中から突然、恐ろしい者が現れた。
 男たちをじろじろと見まわす怪人のさまは、鼻高く、髪は乱れ、髭黒々と、全身の肌が渋紙のようで、背中には青い苔が生えていた。
「おい、その飯を少し食わせろ」
と言うので、少し分けて差し出すと、受け取って舌鼓を打って食った。
「久しく食わぬ飯の味だ。もう少しくれ」
 恐ろしさのあまり弁当を残らずやったのを、すべて食い尽してから、怪人は尋ねた。
「おまえがたは、どこの人か」
「はあ、伏木村の者です」
 するとひどく驚いた様子で、
「おれも伏木村の生まれだ。おまえがたも話に聞いていよう。むかし、しかじかの次第で父母に捨てられ、以来ずっと難儀して苦しんでおる。この恨みを言いに、一度伏木へ寄ろうと思うのだが、その暇がない。今日も阿蘇山へ使いに行くところだ。こんなふうに道草を食うのも、ほんとうは許されないのだ。もし父母がいまだ存命なら、おまえがた、村へ帰って、必ずおれの恨みを伝えてくれ」
 怪人はこう言うと、芒の中を飛ぶように駆け去った。
 天狗かなにかに使役されているにちがいなかった。
あやしい古典文学 No.935