林羅山『怪談全書』巻之一「淳于棼」より

槐樹の王国

 中国、唐の徳宗の時代、淳于棼という人がいて、その家の南に槐樹の古木があった。
 ある日、棼は友人たちと槐樹のもとで酒宴を開き、大いに飲んで酔いつぶれた。友人たちは、家まで棼を担いで連れ帰った。

 帰宅した棼のもとへ、黒い衣を着た二名の者が来て告げた。
「われわれは槐安国王の使者であります。あなたをお迎えに参りました。」
 棼は用意された車に乗って使者と同道し、再び槐樹のもとへいたった。
 樹の根方に穴があって、中へ入ると、大いなる城があった。その門には「大槐安国」という額がかかっていた。
 取次役が出てきて、
「婿どの、遠路をようこそ」
と挨拶し、御殿内へ案内した。
 そこには、白い衣をまとい赤い冠をかぶった、槐安国王と思われる人が待ち受けていた。棼が礼拝すると、王は言った。
「わが娘、瑤芳を、そなたに与えよう」
 たちまち数十人の女が音楽を奏で、火をともし、を導いた。黄金の枝葉で装飾した障子をいくつも開けて、深奥の部屋に到ると、一人の女が待っていた。
 「金枝公主」と呼ばれるその女は、天人のごとく美しかった。この金枝公主が、すなわち王女瑤芳なのだった。
 二人は礼をなし、契りを結んで、楽しい日々が過ぎた。

 あるとき王が、棼を呼び出して命じた。
「わが国の南柯郡は、いま治安が乱れている。よって、そなたを太守として赴任させることとした。」
 その場で官吏に命じて金玉錦の衣服を用意させ、供奉の者と車馬がととのえられた。瑤芳も同道することになった。
 見送りに出てきた瑤芳の母は、
「淳于棼は気が強く、酒好きで困ることもあるだろうが、おまえは妻なのだから、おだやかに従って、支えてあげなさい。」
と、娘を戒めて言った。
 出発した一行は、やがて南柯郡に到着し、住民はこれを喜んで出迎えた。
 棼は善政を行い、南柯郡はよく治まって、それは二十年にも及んだ。王は棼を褒め称え、高い官位を授けた。瑤芳との間には五男二女を得た。棼の栄華は、もはや国内で並ぶ者がなかった。

 しかし、いいことばかりは続かなかった。
 最愛の瑤芳が病死したのだ。棼は深く悲しみ、妻を磐竜岡というところに葬った。
 王と王妃も、臣下を召し連れて葬儀に訪れ、娘の死を弔った。
 このとき棼は、王の婿として権勢盛んであったにもかかわらず、思いがけず人を通して申し渡された。
「仔細あって、王はおまえを故郷へ帰す。親類に対面するがよい。生まれた子供たちは、王の孫として大切にするから、心配は要らない」
 棼は二人の使者に送られて、かつて入った穴から出た。

 夢を見ていたのだった。
 目覚めてみれば、童子が箒でわが家の庭を掃き、友人たちは近くの椅子に腰かけていた。日はまだ暮れない。
 棼は友人たちと、かの槐樹のもとへ行ってみた。
 根方にはたしかに一つの穴があった。その中は広々として、人が出入りするに十分だった。穴の上方に槐樹の根がはびこり、城郭の形、宮殿の様子に似ていた。
 そこには、おびただしく数知れぬ蟻がいた。なかに一匹、白い羽で赤い頭の大蟻があった。槐安国王にちがいなかった。
 一つの横穴を通って南のほうへ行くと、また蟻の多いところへ出た。南柯郡であろう。
 さらに一つの穴があって、中に高さ一尺ばかりの、竜蛇がとぐろを巻いた形の塚が築かれてあった。まさしく磐竜岡である。
 棼は気味が悪くなって、急いで穴を塞がせた。

 その夜、にわかに激しい風雨が起こった。
 夜が明けて槐樹のもとへ行ってみたが、あたりに蟻の姿はなかった。どこへ去ったのか、一匹残らず消え失せていた。
あやしい古典文学 No.937