進藤寿伯『近世風聞・耳の垢』より

稲生武大夫 怪物に逢うこと

 享保五年、備後三次の浅野分家が継嗣なく断絶したため、三次藩の家臣は浅野本家の広島藩へ戻った。
 三次の化物屋敷の噂は、それまでも語られていたが、誰もあまり信用しなかった。しかしこのたび、三次から大挙して引っ越してきた人々の口から、実事の詳細が明らかになったので、ここにあらましを記す。



 発端は、稲生兄弟が某所での百物語の会に加わったことだった。
 その夜遅く、二人が屋敷へ戻ったところ、四方の障子や土壁が一度にがたがたとひしめき、七八人の者の足音がした。
「何事かっ」
 兄弟ともども刀を抜き、障子を蹴倒して出てみたが、何の異変もなかった。
 翌日、友人にこの話をすると、それをまた聞き伝えた血気盛んな若者らが、
「これは面白そうだ。今晩、皆で稲生屋敷へ赴き、その化け物を捕らえてくれよう」
と申し合わせ、六七人が夜八時ごろから詰めて、今や遅しと待ち構えた。
 やがて前夜の時刻になると、庭の築山のほうから凄い風が起こって、障子も雨戸も砕けんばかりに震動した。皆の者は一斉に抜刀し、飛び出した。しかし、怪しいものはいない。人数にものをいわせて、樹々の間、縁の下にいたるまでくまなく調べて回ったが、影も形も見えなかった。
「さてさて、残念なことだ」
 口々に言いつつ座敷へ戻り、刀の鞘を捜すと、すべて縁側の上の扁額の後ろに上げてあり、
「入用の方はお取りなされ。ご苦労様じゃ」
と笑う声がした。
 この後は、なかなか力で立ち向かえる相手ではないという話になって、誰も来なくなった。稲生の兄のほうも、ひとまず親戚の家へ逗留して怪を避けた。

 弟ひとりが、すべての顛末を見届けようと、敢えて屋敷にとどまった。
 夜、また例の時刻になると、女の抜け首があらわれた。絵に描かれた轆轤首とちがって、首の先の顔が上下逆さまで、鳥のごとく飛び回ると、垂れた髪の毛がざわざわキシキシと鳴る音が、言いようもなく物凄い。
 先夜は刀を持って仕留めようとして手に合わなかったので、このたびはただ目を塞いで手出しせず、しばらくして目を開けると、もう妖怪はいなかった。
 次の夜、蚊帳を吊ってから他家へ夜話に行って、戻ってみれば、吊った蚊帳の上にもう一つ蚊帳が吊ってあり、その中に布団を着て寝たり起きたりするものがあった。
 『今夜は手を変えてきたな。どうするつもりか』と見ているうちに、蚊帳が次第に下がって、今にも頭の上に落ちそうになった。『ここだ』と思って目を閉じ、心を静めて、しばらく後に目を開けたら、蚊帳は一つになって他に異状もなかった。

 稲生の弟は豪胆者だったが、ミミズと青蛙を苦手としていた。化け物はそれを知ったらしい。
 翌晩、他家から帰り、庭へ下りて夜食を食おうとしたら、香の物が青蛙と交じり合っていた。青蛙を箸で挟んで捨て、香の物ばかりを口に放り込んで後ろを振り返れば、身の丈八尺はあろうかという大坊主が立ちはだかっていた。
 よく見ると、目のない坊主で、その耳の穴、鼻の穴、口から大嫌いなミミズがおびただしく出て、ぞろぞろ這い寄って来るのだった。『待て、落ち着け』と自分に言い聞かせ、また目を閉じて静まって、再び目を開けたときには、すべてかき消すように失せていた。
 さらに翌晩には、寝所の一間先に、死人を入れる棺桶が出現した。桶はしだいに宙に上がり、もはや天井につくかというときに、竹のたががぶつぶつと切れ、桶がめりめりと割れて、中から躍り出た頭のない裸の死体が、四つん這いで寝所へ這って来る。今度も目を閉じると、かき消えてしまった。

 怪事はこんなふうに三十日ばかり続いたそうだが、あまりに数多いので他は略す。
 そしてついに、あるとき竈の奥から、いかにも腹の底から唸るように、
「貴殿ほど大胆不敵な人を見たことがない。我は世に名高い化物で、出雲国五郎左衛門と申す。日本国中で十八歳になる血気盛んの男子を千人たぶらかすと、このうえない高い位に上ることができるので、こうして国々諸所を化物行脚しているが、貴殿のような人に会ったのは初めてだ。備前の国のある侍は、あの手この手で脅してもいっこうに驚かなかったが、ある日、その侍が外から戻ったとき、我が納戸の入り口をふと出かけて鉢合わせると、あまりに思いがけなかったのか、瞬時に目を回した。貴殿には、そうしたこともなさそうだ。手を変え品を変えても効き目がなく、このまま長居しては、わが立身の妨げになりかねないから、もはやここを去って長門の国に下り、そのあと九州へ下ろうと思う」
 声ばかりして姿は見えず、それきり化け物は出なくなった。



 稲生の弟は、今は稲生武大夫と名乗る人で、三次での怪事について、
「けっして狐狸のしわざではなく、まぎれもない化物だった。だが、人間は万物の長であるから、化物に出遭っても、心を静めて取り合わないことが第一である。そうすれば、相手はどうすることもできないのだ」
と話しているそうだ。
 この人は、三次から引っ越して後、六町目に居住しているらしい。
あやしい古典文学 No.943