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進藤寿伯『近世風聞・耳の垢』より |
流言恐るべし |
嘉永七年五月下旬、広島の町に突如として怪しい風説が広まった。 「毎夜、女の酒売りが町を徘徊して、『酒いらんかね』と戸を叩く。『いる』とか『いらない』とか返答すると、即死する。」というのである。ものの道理の分からぬ人々は大いに怖れて、異国の魔法を使うのだなどと言った。 この風説は、わが町だけでなく、郡中の他所あるいは近国でも既に騒がれたもので、付随する怪談や妄語も数々ある。三次郡では七十人ほど死んだ、廿日市では二十人死んだ、当所でも何町何屋の婆が死んだ、また何町では娘が死んだ、などと言いふらす。よくよく聞けば、みなありきたりの病死なのだが、こういう折だから怪談になってしまう。 さて、この女酒売りを除ける呪文というのがある。ばかばかしいことこの上ない。 「あまの岩戸の糸酒屋 女酒売り入るべからず」 線香を包んだ赤紙にこのように書き付けて、家々の門柱に張っておくのである。 五月二十二、三日ごろから数日の間に広島じゅうにひろまったが、二十七、八日ごろには、お上からお触れがあった。 「虚説であるから、赤紙を張ること無用。また、偽って人の家の戸を叩いて驚かすこと無用」と。 これにより、さしもの妄談もたちまち勢いを失った。だれかが最初にでたらめを言って、聞いた皆がそのままを言い伝えたのだろう。まさに「流言恐るべし」だ。 後日、『無題筆記』という書を見たら、宝暦九年七月下旬、一人の女が町を歩き、酒を売りに家々を巡ったという。 この女を見ると家内じゅうが病気になるといって、人々は怖れをなし、家ごとに邪病神除けの南天の葉笹などを柱に吊ったそうだ。 今般の虚説も、この古事を知って言いふらしたのではなかろうか。 |
あやしい古典文学 No.948 |
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