建部綾足『折々草』夏の部「竜石をいふ条」より

やわらか石

 かつて大和国の上品寺(じょうぼんじ)というところへ行ったとき、泊まった家の主が体験談を語ってくれた。

 あるとき主は、同じ大和の高取の城下町に住む従兄弟を、久しぶりに訪ねようと思い立った。
 七月半ばの大変に暑い時節だったから、まだ暗い四時ごろに家を出て、『三里ばかりの道のりゆえ、夜が明けてちょうどよい頃に着くだろう』というつもりで歩いていたら、町も間近になったところで、やっと東の空が白んできた。
 『少し早すぎるな。ここらで少し休んでいこう』と思ったが、そこは草露のおりた一面の野原で、腰を下ろしかねた。辺りを見回すに、草の中にちょうどよい石がある。径二尺ばかりで、鈍色をした石だ。
 『草の中ではブヨなども多かろう。道まで持ってこれないものか』と手をかけて動かすと、見かけより思いのほか軽い。それを運んで道の真ん中に据えて、手拭の真新しいのを敷いて腰かけた。石は体の重さでたわむような感じで、まるで畳んだ布団の上に座ったかのようだ。奇妙だったが、気のせいだろうと、深く心に留めなかった。
 さて、火打ち袋を取り出して煙草に火をつけ、連れて来た下僕にも吸わせた。稲が青々と育っている田を気持ちよく眺めてしばらく居るうち、朝日が赤々と昇ってきた。
 『さあ行こう』と立ち上がり、少しばかり歩くと、汗がだくだくと流れ、ひたすら暑くてたまらない。清水に立ち寄って顔を洗ったら、ふと堪えがたい臭気が鼻をついた。何かと思えば、石に敷いた手拭に染み込んだ悪臭で、蛇の臭いに似ていた。
 『これはいかん。あの石の上に蛇がとぐろを巻いたにちがいない』。すぐに手拭を清水で洗ったが、臭いは落ちない。それどころか、水に漬かってますます臭気がつのり、頭の芯が痛くなるほどだったので、手拭は捨てた。
 そのときには既に、手にも体にも他の持ち物にも臭いが移っていた。臭くてたまらず、『早く従兄弟の家へ行って、風呂に入れてもらおう』と大急ぎで行き着くと、ちょうど家族集まって朝食の最中と見受けられた。

 従兄弟は、不審げな顔で来客を迎えた。
「これは、お久しぶりです。しかし驚きました。暑い時節だというのに、朝方でなく、炎天の日盛りを歩いておいでになるとはね」
「いや、暁前に出て、さきほど夜が明けたんだが……。おぬしらも、今朝飯ではないのか」
 従兄弟の家の者はみな笑って、
「どこかで昼寝して、寝ぼけているのでは? 空を見ればわかる。どう見ても昼過ぎですよ。うちは今日は昼飯が遅くて、今ごろ食べているんです」
 そう言われてあらためて見れば、たしかに夏の昼下がりの日差しだ。暑さも朝方のものではない。
 一緒に来た下僕も、首をひねった。
「しかし、途中の道で時を過ごすようなことは、何もしませんでした。煙草を二服ばかり吸っただけです」
 従兄弟は言った。
「とすると、あれかもしれませんね。山の麓に性悪の狐がいて、時々そうした悪さをすると聞きますから」
「狐とも思えんが…。じつは途中で変な軟らかい石に座ったら、酷い臭いがついて、いまだに消えない。気が変になりそうだから、風呂に入れてくれないか」
 これを聞いて、従兄弟は大いに驚いた。
「あっ、そいつはまずい。あの石は竜石といって、この辺で知られた化け物です。正体が何かは分かりませんが、強烈な蛇の臭いがするので、土地の者は竜が化けたのだといっています。あの石に触れた者は疫病に罹って、命を落とすことも少なくありませんよ。大丈夫ですか」
 大丈夫ではなかった。たちまち全身発熱して、激しい頭痛に悶え苦しむこととなった。さいわい従兄弟は医者だったから、急いで良薬を煎じて飲ませ、また体についた臭いを、薬液で拭き取ったりした。
「ひととおりの手当ては行いました。この家で長く病臥しても、なにかと不自由があろうと思います。帰って妻子の看護を受けられるのがよいでしょう」
ということで、その日の夕方には、呻きながら駕籠に乗って帰路についた。

 見送りに出た従兄弟が言った。
「途中の休んだところで見られるといい。きっと石はなくなっているはず」
 駕籠に付き添った下僕は、石を道の真ん中に置いた場所に来たとき見回したけれども、たしかに失せていた。『だれかが取り除けたのかも』と遠近を見渡したが、もとより石一つない野原なのだった。
 『ほんとに化け物だったんだな。おれは地面に座って、石に触らなかったから無事なんだ』。下僕はもうけものをしたような顔つきで、駕籠とともに帰り着いた。
 病人は、翌月まで重く病んだ末、やっとのことで癒えた。その後は、子供らにも誰にも、
「山へ行ったときは、軽はずみに石に腰かけるな」
と教え諭したそうである。
あやしい古典文学 No.951