村純清『奇事談』、「森下河伯」より

河童を食う

 金沢城下では武士も町人も漁猟を好み、よく鍛錬していることは他郷の比ではない。筋骨たくましく、山野を奔走するさまはみごとである。
 かつて藩主が江戸へ赴く道を、千曲川、犀川が増水して阻んだとき、水練の達人の藩士たちがこれを泳ぎ渡って、現地の人々の目を驚かしたこともあった。

 宝暦のはじめのころの話だ。
 浅野川の橋番人に彌左衛門という者がいた。若いころから漁猟を半ば生業としていた。同様の者に、山伏の山王院と慈源寺、馬切長兵衛がいた。
 この四人が、岩田傳左衛門という武士に雇われて、五月ごろ、森下川切通しで、うぐい刺網を持って漁をした。
 森下川切通しは、山を五十間ばかり掘り抜いて川を通したところで、この穴の中へは、普通の漁者は怖れて入らない。それだから魚も多く、四人は普段から好んで穴へ入っては、明り取りの抜け口から出たりしていた。
 この日は、淵の端っこで長兵衛が網を送り出し、山王院と慈源寺がその辺で網を打っていたが、ふと山王院が彌左衛門に向かって、「おい、おい」と手をあげて呼ばわった。
 彌左衛門が、なんだろうと辺りを見回したとき、水中から手が出て、彌左衛門の下帯を掴んで引っ張った。「あっ」と思いながらもなんとか踏んばり、傍らの小さい柳につかまったが、怪力に引かれて、ついに柳が根こそぎ抜け、そのはずみで水中の手も離れた。
 茫然自失の彌左衛門を尻目に、長兵衛は手が離れたのを見ると、瞬時に水に飛び込んだ。山王院と慈源寺も急ぎ来て、これもたちまち水に潜った。
 三人はそのまま、しばらく浮かんでこなかった。彌左衛門はさっきの出来事に動転して身動きできないでいたが、そこへ三人一度に浮かび出たので、やっとほっと息をついた。
 山伏両名は、手に獣のようなものを提げていた。その獣が、先に潜った長兵衛を押し倒し、腹の上へあがって咽喉めがけて食いつこうとしたのである。長兵衛が両手でやっと防いでいるのを後から潜った山伏たちが見つけて、獣の片足ずつを持って両方へ引き裂き、そのまま浮かび上がったのだった。
 獣をよく見ると、獺のようだが、頭に少し窪んだところがあって、伝え聞く「河童」というものと思われた。四人は獣の皮を剥ぎ、肉を河童汁にして食った。

 後日、彌左衛門は、倉屋勘右衛門という者を伴って、また切通しへ行った。
 先般おくれを取ったことを無念に思い、「もし同類がいるなら出て来い」と、一人で潜って探したが、何も見つからなかった。
 このとき彌左衛門は七十余歳。剛気なものである。
あやしい古典文学 No.956