『怪談御伽猿』一之巻「女猿の人間と遇せし奇怪の事」より

もと猿

 今ではもう昔の話だ。

 肥後国と筑後国の境に、南ノ関というところがある。そこから高瀬というところへ往来する道を小関越といって、山坂の続く四里半の道のりだ。
 小関越の途中には小関峠があって、峠の頂上に、旅人が足を休める茶店があった。店の主人は大津屋三次郎とかいう男だった。
 茶店では、一匹の女猿を飼っていた。もとは知り合いからの預かりものだったが、三次郎夫婦はこの猿を溺愛し、夜には同じ寝床で抱いて寝た。
 女猿は主人の三次郎にことのほか馴れて懐き、そのさまは子が親を慕うかのようだった。三次郎のほうも、わが女房よりも女猿を可愛がるほどだった。
 そのうち茶店に、お京という下女が雇われて来た。年のころ十六七で器量も人並み以上だったから、いつとなく三次郎は、お京を寝部屋へ呼んで妾のごとく愛するようになった。
 女猿は、三次郎とお京の仲を猛烈に妬んだ。一時でも二人が一緒にいて話などすれば、お京に跳びかかって引っ掻くなどの乱暴をはたらいた。
 三次郎は次第に女猿をうとましく思い、もとの飼い主へ返したいと考えるようになった。

 さて、六月下旬の暑さが耐えがたい夏の夜のことだ。
 三次郎は、夢とも幻ともつかず朦朧とあちこち徘徊して、ひとつの山に入った。
 『この山は、むかし来たことがあるような……』と思い、また『そんなはずはない。初めて来たんだろう』とも思いながら、そろそろ行くと、向こうに楼門があった。
 一人の童子が通りかかったので、
「ここは、いったい何処かね」
と尋ねると、
「京都の比叡山山王大権現のお宮ですよ」
と言って通り過ぎた。
 『さては日吉山王権現か。それならお参りして帰ろう』と、楼門の手前まで行ったとき、浄衣に烏帽子を身につけた神官が、杖を手にして出てきて、三次郎を大いに叱った。
「何をしに来た。おまえは昔、この御社に仕える身でありながら、大切な神事を夫婦して汚して、御社から追放された痴れ者だ。あれほどの罪科をかえりみず、ここへ来るとは何事か。ただちに立ち去れ、立ち去れ」
 神官は杖を振るって、三次郎を打ち叩いた。すると、叩かれたところに次々に毛が生えて、全身みるみる男猿に変じた。

 三次郎は、汗みずくで目覚めた。
「いや、不思議な夢を見たものだ」
 猿に変身した次第を女房に語ると、女房は、
「夢は五臓のわずらいとやら。深いわけなどありませんよ」
と言う。三次郎もその言葉に安心して、また眠りについた。
 夏の夜は短い。遠くの寺で暁の鐘が鳴り、東の空が明るんだ。
 その日もいちだんと暑さが耐えがたかったので、昼過ぎに三次郎は行水して、真っ裸のまま縁側で涼んだ。
 かの女猿は傍らで横になっていたが、突如むくむくと身を起こして、三次郎の陰嚢を両手でいきなり掻き破った。
 激痛のあまり大声で叫び、家内の男女が駆けつけたときには、既に三次郎は悶絶して死んだようになっていた。
 薬だ、水だと介抱して、やっと蘇生したが、それから始終ただ猿の挙動をして、二三日後に死んだ。

 三次郎の見た不思議な夢といい、女猿に陰嚢を破られたあげく男猿の挙動をして死んだことといい、きっと前世の因縁があってのことだろうと、世間では噂した。
あやしい古典文学 No.969