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唐来参和『模文画今怪談』より |
いるいる |
上州に、刻み煙草を商う者があった。 妻との仲はいたって睦まじく、妻は常々夫に言っていた。 「もしわたしが死んだら、菩提寺には葬らず、亡骸をこの家の一間に置いて、後妻は迎えないでね。きっとよ」 その妻はあるとき、風邪をこじらせて病の床に臥し、ついに死んだ。夫は遺言を守って亡骸を寺へやらず、一間に置いたままにした。 喪が明けて店を開け、夫が煙草の葉を調えていると、奥から妻の声で、 「そこに居るの?」 と呼びかける。どうしたのかと見に行くと、普通に死んだままで、何も変わった様子はない。で、また店へ出ると、同じように呼びかけてくる。 少しの間でも傍を離れると、すかさず声がかかった。夫もそのつど、 「いるいる」 と応えた。 ある日、渡りの鏡研ぎ職人がやってきた。夫は鏡を取り出して研がせ、その男に頼んだ。 「ちょっと隣まで行ってくるが、奥に病人がいて、『そこに居るの?』と訊くから、そしたら『いるいる』と返事してくれ」 夫はそのまま帰らなかった。奥からは何度も、 「そこに居るの?」 と声がする。 「いるいる」 と応えていたけれども、あまりしつこいので、とうとう鏡研ぎは腹を立てた。 「だから、居ると言うのに。やかましいなあ」 すると奥から、 「怨めしや。わたしがこうなってしまったら、もううるさく思うのか」 と、死骸が這い出してきた。 一目見るなり、鏡研ぎは逃げだした。死骸はあとから執拗に追ってきたが、やがて川があって、岸の捨て舟に飛び乗って向こうへ渡り、後も見ずに逃げ延びて振り返ると、もう姿がなかった。 |
あやしい古典文学 No.991 |
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