大田南畝『一話一言』巻十四「四谷大番町平岡氏奴僕怪事」より

吉平の女

 小普請組 阿部大学支配、四谷大番町平岡劉太郎方で怪事があった。
 そのあらましを平岡氏が記した文書を、南条種之丞殿から借用し、写しておいた。寛政十一年の事件である。

        *

 当平岡家で中間として召し使う吉平という者が、三月二十九日に使いに出た道でふと女と知り合い、それより毎夜三時ごろ女が中間部屋へ通ってくるようになったと、吉平自身が朋輩の中間に話したことから、あちこちで噂になっていると聞き及びました。
 そこで私がさまざまに詮議して判明したことを、お望みにつき覚書にしたため、上申する次第です。

        (一)
 私を育てました乳母で、今も私方に召し使っております者を通して、以下のことを吉平から聞き取りました。
      (吉平からの聞き取り)
 さる三月二十九日にお使いに出ましたときのことでございます。空模様があやしいので雨具を用意して行き、御用を済まして、内藤様お屋敷の脇まで帰ったところで、ことのほか雨が激しくなったので、急ぎ足で田圃まで来ると、後ろから若い女の声が、
「もしもし」
と呼びかけます。何用かと訊くと、
「大名小路辺まで参るのですが、傘の用意がなくて大変に難儀しております。差し支えなくば傘にお入れくださいますようお願いいたします」
と頼むのです。そこで女を傘に入れ、連れ立って帰る道すがら、女の顔をつくづく見るに、まことに美しく、『こんな綺麗な女も、世の中にはいるのだな。男に生まれて、これほどの美人と一生を暮らせるなら、本望この上ないというものだ。』と、色情がきざしてまいりました。
 ちょうどその時は前後に人影もなかったので、なれなれしく戯れかかり、『もしも承知ならよし、不承知なら無理やりにでも…。』などと悪心さえ起こりましたが、女のほうも何となくそれを承知の様子で、むつまじく話しながら歩いてゆきました。
 そのうち、女が申しますには、
「あなたは奉公なさる身だから、夜に通ってきて下さるのは難しいわね。わたしも訳ある者の娘だから、住む家は言えないけれど、あなたの心さえ変わらぬなら、末永く夫婦の契りを結びたい気持ちなの。これからは毎夜、二時の鐘を合図に、人に見つからないように、あなたの部屋へ忍んでいくわ」
 そこで、女と固く約束して、当家御門の前で別れたのでございます。
 やがて夜が来て、真夜中になって、『もしかしたら、ほんとに昼の女が来るかもしれないぞ。まあ、おおかた嘘だろうが…』などと眠らずに考えておりましたら、三時ごろでしょうか、部屋の戸の外から、
「源次さん、源次さん」
と呼ぶ声がいたしましたが、「源次」というのは奉公する前の田舎にいたころの呼び名で、江戸では誰も知らないはず。合点のいかないことでございました。

        (二)
 ある夜、私が親類方へ行って、吉平のことを語りましたところ、その家の家来の榎本久次が「ぜひ真相を見極めたい」と申すので、連れ帰って吉平の傍らで臥せさせました。
      (榎本久次の報告)
 予期したとおり、真夜中、吉平はたいそううなされ、大声をあげました。
 呼びおこそうとしてもいっこうに目を覚まさないので、行燈に火をともしましたところ、吉平は全身汗みずくで、水を飲ませると少しずつ正気づいてまいりました。
「どうしたのだ」
と尋ねると、ため息をついてこう申しました。
「いや、残念なことをなされました。たった今、女が戸を開けて上がり口まで参りましたのに、あなたさまがあんまりお騒ぎになるので、帰ってしまいましたよ」
「その女が来るときは、いつもこんな具合か」
「いつも女が戸を開けるときは、ぞっと寒気がして胸苦しくなりますが、女が傍に来ると落ち着いて、それからはいつものように仲良く話などするのです」
 それからまた、灯を消して臥せりました。
 一時間ほど過ぎて、またまた吉平が激しくうなされ、大声で泣きますので、ここぞと思って隠し持ったる一刀を抜いて切り払いました。その瞬間、何か猫ほどの大きさの黒い物が上がり口から飛び降りて、縁下に逃げ込んだようでした。
 明かりをつけて見ると、上がり口に、それまでなかった手拭が落ちていました。紺地に菖蒲の模様を染めたもので、吉平を起こして手拭を見せると、
「あっ、これは一昨日、わっしが貸してやったものです。間違いありません。今夜来たときには、これを肩に掛けておりました」
などと申しました。
 そもそも、女が戸を開けて入ってきたと吉平は言うのですが、当方は一睡もせずに居たので、戸が開いたことは決してなかったと言いきれます。
 そうこうするうちに夜明けの鐘の音がして、もはや怪女は参りません。なにぶん闇の中のことで、刀を振り回しては吉平に怪我をさせるかもしれず、存分に働くことができなかったのが残念でございます。

        (三)
 三月二十九日夜より怪女が来たことを、吉平は私には隠しておりましたが、自分自身あやしく思ったのか、四月八日ごろに私の乳母に、
「この長屋で女が変死したことなど、なかったでしょうか」
と尋ねたそうです。乳母が否定すると不審そうな顔をするので、いろいろ問いただすと、夜ごと女が来ることを白状いたしました。
 やがて私の耳にも入ったので、本人を呼びつけて叱責し、狐狸の類のしわざかもしれないからと、鎮守八幡宮の御札と石尊権現の御太刀、さらに御鹿狩の節に持参した竹槍を貸してやりました。
 その夜は女が入ってこなかったものの、隣の空き部屋へ来て、壁越しにさんざん恨みごとを申し、こんな仕打ちをするなら取り殺してやると脅したので、吉平は翌夜から、私には知れないように御札・御太刀・竹槍を隠してしまいました。それで、今までどおりまた女が来るようになったのです。
 その辺の事情を後に聞いた私は、
「では、いつもどおり女に接し、打ち解けて油断したときに紐で縛り上げ。生け捕りにして連れて来い」
と命じましたが、
「たとえ主人の命令でも、縛ることは出来まねます」
と言って従いません。
 やむなく出入りの修験者に祈祷を頼み、吉平を寄坐(よりまし)にして寄加持(よせかじ)を行いましたが、夜明けまでいっこうに寄りつきませんでした。
 あとで吉平は、朋輩の女中に、
「加持のとき、女はわっしの傍まで来ていた。ものすごく苦しそうに顔から汗を流し、折々わっしの顔を怨めしげに睨んだ」
と話したそうです。
 そのせいか、吉平自身も祈祷をしたことにはなはだ立腹しており、私としても、こんな様子ではなかなか本心に戻ることは出来まいと諦めて、四月二十日に解雇を申し渡しました。結局、狐狸か猫の類か、まったく分からないままでした。
 二十日朝に請人(うけにん)方へ吉平を遣りましたが、その昼ごろに請人方を出て、以後の行方はいっこうに知れないとのことです。
あやしい古典文学 No.993