大田南畝『一話一言』補遺巻三「伊勢雲津川天神の火」より

うめく火

 伊勢の雲津川の上流に、天神山という山がある。その山に、珍しい火がある。里人は「天神の火」と呼んでいる。

 夏から秋にかけて、日が暮れると天神山の茂みに、この火がたくさん見える。たわむれに人が呼ぶと、たちまち目の前まで飛んでくる。山から里までは二里あまりもあるのに、呼ぶ声に応じて、矢よりも早く飛んでくる。
 篝火ほどの大きさの火で、地上から一二尺のところに浮かんで動く。火の中に呻く声のようなものがあって、人が歩くのを追って動く。それ以上怪しいこともないし、害をなすこともないので、みな見慣れていて、子供などは火の中に頭を入れて、かぶって遊んだりする。
 火でありながら熱気はない。色は普通の火と同じだ。厭な臭いがあって、長く近くには居たくない。
 人が家に帰って戸を閉ざすと、ついてきた火は一晩じゅう門前にとどまって呻き声を発しつづける。里人は、「また誰か戯れに火を呼んだらしい」と言って、戸外に出て草の葉を一つかみ摘み取り、それを額にかざす。すると火は、さっと飛びのいて薄くなり、消え失せる。
 草でなくても、何か地上にあるものを額にかざしてみせると、すぐに逃げ去るともいわれる。この火はいった何ものなのか、だれも知らない。
あやしい古典文学 No.996