堀麦水『三州奇談』四ノ巻「赤蛇入亭」より

火蛇

 蛇は、陰毒の気が土中で凝結して成育したもので、好んで人を驚かす。
 幾つかの種類があるようだが、一つ一つを確かに数え上げることは難しい。龍気を帯びて不思議な力を現すことが、ままある。

 宝暦九年の夏のこと。
 加賀藩中の青山家で奏者役を務める木村弥左衛門が、同輩数名と玄関の板間に詰めていたところ、屋敷の門前に、一筋の赤いものが忽然と現れた。
 怪しんで注視していると、体長五十センチほどの烈火のごとく赤い蛇が、地を離れること一メートルばかりの宙を翔けて、さっと門内へ入った。
 「なんだ、あれは」と立ち騒ぐなか、蛇はあれよあれよというまに玄関を通り、奏者役たちに迫りくる。皆いっせいに座を立ち、逃げ惑って物陰に隠れた。
 しばし蛇は、あたりを静かに行き来していた。やがて使者の間との境の杉戸にちょっと触れるように見えたが、そのまま苦もなく向こう側へ突き抜けた。
 杉戸をあけて姿を探したけれども、どこへ行ったのか、もう消え失せていた。その杉戸は、鉄砲で撃ち抜いたかのような穴があいて、現存するという。

 享保の初め頃、金沢の町は大いに繁栄して、町の東西の端に、新たに数百軒の家が建ち並んだ。とりわけ泉野口左側は夥しい家屋が建ったため、そこにあった刑場は移転された。刑場跡は、元文元年から僧庵となった。
 元文四年二月には、小立野の平井吉左衛門の家来が徒党を組んで主人を殺害する事件があったが、たちまち露見して皆捕らえられた。同年七月二十一日、新刑場で処刑。中田茂左衛門・吉川政右衛門をはじめ、高桑忠右衛門・小者時内・若党吉村浅右衛門・浪人某、ことごとく磔である。
 人数が多いため、刑場を広げる必要があり、周辺の松の古木を数本切り倒すことになった。その松の中に並外れた大木があって、幹は二抱えほど、高さは三十メートルあまり、下で枝分かれせずにまっすぐに伸び、先のほうは豊かに枝葉が茂っていた。
 役人が立ち合い、まず切り倒す方向を制御する控え縄をつけるため、大木に木こりを登らせた。ところが、木こりは半ば過ぎまで登ったと見るや、たちまち真っ逆さまに落ちて死んだ。痛ましい事故だったが、やめるわけにもいかない。また一人を登らせると、これも同じ場所から落ちて即死した。
 こう次々に木こりが落ちては仕方がないので、竹の輪をこしらえ、それに縄をつけて、長い竿で樹上から通して縛り上げ、ついに控え縄をつけることができた。
 続いて根元を伐らせたところ、伐り倒すのに数日間かかった。伐った跡を見て、木の幹の中心が空洞であったことが判明した。空洞は根を通って地中深く広がると見え、その果ては知れなかった。
 と、その時、洞中から、体長一メートルばかりの蛇が跳び出た。体色の赤いこと朱で染めたかのようだ。おそろしい勢いで奔走するので、人々が恐れて逃げ隠れるうち、蛇は草むらに入って見えなくなった。
「もしや、これが火蛇というものか」と、当時さかんに取り沙汰されたらしい。

 また、赤い蛇ではないが、こんなことがあった。
 元文二年の夏、彦三三番町の末土橋の上に、怪しい蛇がいた。体長二十センチあまりの小蛇で、尾先が丸く、頭と尾が同じように見えた。体は円く、皮は灰土色で斑紋があり、海鼠(なまこ)みたいにいぼいぼだった。
 人々が犬をけしかけると、蛇は尾を上げて威嚇し、煙のような黄色い気を吐いた。黄柏(きはだ)の粉を散らしたかのようだった。犬はその毒にやられたか、夜のうちに死んだ。蛇はどこかへ去った。蝮の仲間だったかもしれない。
 宝暦三年の四月には、金沢城本丸に、体長十二メートルの大蛇が現れた。その色あくまで白く、光を受けた雪のごとく輝いて、路辺に横たわっていた。
 石川石垣の下にも、六メートルほどの大蛇が出た。こちらは青色に輝いていた。頭部は猫の顔の大きいやつのようで、たちまち姿を隠した。これを見たのは藤田某と、そのほか軽輩の数名だったが、いずれもその後、だんだんと取り立てられて出世したそうだ。ずいぶん変わった吉兆である。

 吉兆といえば、宝永五年十二月、西尾某の家に双頭の鶏が出生し、間をおかず、西尾家に吉事があった。
 越中安養寺村の百姓の家では、四足の鶏が生まれ、これまた家に幸いがあった。
 宝暦十二年、金沢八幡町の紺屋某の家でも、八本足の猫が生まれた。きっと幸いがあるだろうと、心待ちにしているところだ。
あやしい古典文学 No.1004