伴蒿蹊『閑田次筆』巻之一より

毛のある疫病

 享和元年の暮れから翌年の正月にかけて、長崎で疫病がはやった。用事があって一年ばかり同地に旅していた筆者の知友も、疫病に罹ったと手紙に書いてよこした。
 その手紙によれば、オランダ人から伝染したとも、前年に漂着したアンボン人などの蛮人から発生したとも言われ、かつてシャムロ人の渡来に伴い風邪が流行したのと同様だとの説がもっぱららしい。
 その疫病は、長崎から北九州を経て、ついに上方に及び、広く流行した。
 京都は二月の二十日過ぎから三月二十日ごろまで続いて、どの家でもどんな人でも病まぬ者はなかった。同じころ近江でもひどかったそうだ。
 症状はふつうの風邪に似ているが、呉又可の『温疫論』を思い合わすに、やはり疫病の一種であろう。罹りはじめに薬を用いて治療すれば、速やかに効果が出るようだ。

 さて、不思議なことに、この疫病を病んだ者は、袂(たもと)の内に必ず変な毛があるという。「それは腋毛が抜けたのだろう」と嘲る人もあるが、そうとも言いきれない。
 筆者の近江の親族も、袂の内に薄赤い毛を一筋見つけた。そこで、同じく病んだ家の者全員に袂を調べさせたところ、みな毛があった。二筋、三筋と見つけた者もあったそうだ。
 播磨や尾張からの情報でも、毛があるのは同じだった。なんとも怪しい話だ。わが家では早いうちに罹ったので、そんな噂がまだ広まっておらず、毛の有無に気づかなかったが、実際はどうだったか、気になる。
 蛮人から伝染したゆえに、毛が生じたのだろうか。袂を探ると出てくるのも奇妙だ。一般の道理で論じることは難しい。
あやしい古典文学 No.1011