浅井了意『伽婢子』巻之七「雪白明神」より

雪白明神

 長享元年九月、将軍足利義熙は自ら軍兵を率いて近江へ向かい、坂本に陣をとって、南近江守護の六角高頼を攻めた。
 高頼は防ぎかねて、居城の観音寺城を捨て、甲賀郡の山中に退いた。

 高頼の家来に、堅田又五郎という者がいた。武勇・力量は人に勝りながら、常に仏神をうやまって後世を願う心が深く、観音経一回・阿弥陀経一巻・念仏百回の読誦を日課としていた。
 主君の高頼が城を落ちたので、又五郎も是非なく、寄せ手の大軍の中を必死に切り抜けて、安養寺山の奥へと逃れていった。
 そのうち日が暮れると、道をどう行けばいいのかもわからない。谷陰に藁葺きの一軒家があって、内に人がいないのをさいわいに、とりあえずそこに身を隠した。
 まもなく軍兵二十騎ばかりの音がして、
「たしかに後ろ影を見た。さだめし伊賀路をめざして行ったであろう」
などと言うのを聞けば、又五郎を討ち止めようとする追手にちがいなかった。
 しかし、追手は隠れた家には目をつけず、遠ざかっていった。

 ほっと一息ついたところに、また人が来かかる音がした。
 そっと窓から覗くと、齢四十ばかりの背の高い女で、黒っぽい小袖を着て、手に綺麗な袋を持っている。
「堅田又五郎どのは、ここに隠れておいでか」
と言ったが、又五郎は応えず、じっと息を殺していた。
 女は笑って家に入り、
「何も恐れることはありませんよ。わたしは当国栗太郡に御座します雪白の宮の使いで、堅田どのを助けに参りました。ゆめゆめ疑いなさいますな。あなたは常々慈悲深く、仏神をうやまい、後世を求めて精進に怠りないので、その志に感じて、雪白の明神がお守りになるのです」
と、持ってきた袋の緒を解き、焼餅を取り出して食わせた。また、小さい瓶に入れた酒も飲ませてくれた。又五郎は十分満ち足りて、明神への感謝の気持ちはたとえようもなかった。
 女は、家の前庭の地面に横線を一本引いてから、
「今宵、夜半ごろに怪しいものが来て脅かすでしょう。でも、けっして恐れ騒がないように。それを遁れさえすれば、もはやあなたの行く末に凶事は起こりません」
と言って帰るかに見えて、たちまち姿はかき消えた。

 はたして夜半、怪しい光が閃き、その光に輝いて来る者があった。
 窓から覗き見ると、背たけが一丈あまりもある鬼で、赤い髪を乱し、白い牙を噛み合わせて、火の如き二本の角がそそり立っていた。口は耳まで裂け、ぎらつく眼は鏡面に朱を注いだかのようだ。爪は熊鷹のようで、豹の皮を腰に巻いている。
 鬼は真っ直ぐ家の内へ駆け入ろうとしたが、女が引いた線に阻まれて進むことが出来なかった。激怒した鬼の眼光は稲妻の如く閃き、口から炎を吐きながら、地団太踏んで地鳴りを轟かせた。
 さすがの又五郎も身の毛がよだち、胆をつぶして凍りついた。恐ろしいどころの話ではない。しかし鬼のほうも、いかにしても線を越えることができず、怒りを呑んでその場に立ち尽くした。
 そこへまた追手の軍兵が、十騎ばかりで寄せてきた。
「又五郎は、この家に隠れているはずだ」
と話している。みなで声をあげて、
「出て来い、又五郎。観念して出て来い」
と呼ばわったとき、線の前で悶々としていた鬼が、くるりと踵を返して駆け出した。
 鬼は馬上の兵士を掴み殺し、馬を踏み殺して食らった。そのほかの郎等どもは、蜘蛛の子を散らすように足に任せて逃げ失せた。

 鬼もどこかへ去って、静かな夜明けが来た。
 外へ出てみると、馬の頭、人の手足などが、そこここに血まみれで転がっていた。鎧兜や刀もてんでに散乱してあった。
 又五郎はついに危機を脱して、そこから伊勢に下った。白子というところから舟に乗って駿河に渡り、今川氏親を頼って身を隠したというが、その後のことはわからない。
あやしい古典文学 No.1016