本島知辰『月堂見聞集』巻之十六より

兄弟の決闘

 享保八年十月十一日のこと。

 丹波国氷上郡の磯というところに、竹右衛門という四十歳くらいの非人頭がいた。同郡柏原では、弟で二十五歳の藤助という者が、やはり非人頭をつとめていた。
 二人の支配地は複雑に入り組んでいて争いが絶えず、ついに兄の竹右衛門は弟に使者を遣った。
「このように兄弟が憎しみあうようになったからには、是非もない。柏原のはずれの山裾に広い野原がある。よい場所だから、本日、そこで勝負を決しよう」
 弟の藤助は使者の言葉を聞くと、そのまま身支度して、ただ一人で果し合いの場所へ出向いた。
 竹右衛門は身の丈六尺あまりの大男で、剣術の達人であり、槍を持って待ち構えていた。その女房は薙刀を携え、そのほか竹右衛門の兵法の弟子のうちの屈強の者五人が、皆々刃物を抜き放って居並んでいた。
 兄弟の決闘の噂を耳にした遠近の百姓どもは、老若男女を問わず見物に集まり、高みに陣取って、闘いの始まるのを待った。

 ところで、この兄弟には齢六十あまりの母親があった。これが鎌の達人で、決闘のことを聞くと、ただちに愛用の鎌を提げて駆けつけた。
 母親は鎌を尻の下に敷いて座り込み、藤助に声をかけた。
「おまえは一人、むこうは七人だが、臆するでない。早々に踏み込んで勝負せよ」
 その言葉に力を得た藤助が、一気に間合いを詰めて竹右衛門に打ちかかると、竹右衛門は槍で藤助の首筋を突く。突かれながら槍を打ち落とし、竹右衛門を袈裟懸けに斬り倒した。女房がそれを見て、薙刀で横ざまに切りかかる。身をかわして女房の首を斬り落とした。
 五人の弟子の一人は、藤助の背後に回って、足をなぎ払おうとする。すかさず母親が鎌で打ちかかり、脳天を真っ向から二つに叩き割った。他の四人の弟子も、それぞれに負傷して逃げ去った。
 藤助は、首筋の槍傷から多量に出血するのを草の葉で塞いで、母親とともに我が家へ引き上げた。

 この事件は、はじめ領主に訴えが上がったが、『非人のことゆえ取り上げない。京都悲田院へ申すように』とのことで、悲田院の裁許に委ねられた。
 竹右衛門死去につき、後任の非人頭が悲田院から派遣された。負傷した藤助については、京都に呼び寄せて養生させたい意向であった。しかし、竹右衛門に二人の男子がいて、兄十五歳、弟十二歳、これがつけ狙うため道中が危うく、やむなく藤助の家で大勢の護衛をつけて養生することになった。
 藤助の刀はすぐれた業物で、闘いのさなか、傍らの周囲一尺六寸の竹に刃が当たって切れたが、その切り口が、まるで大根などを切ったかのようだったという。
 事件については諸説あり、話す人によって少しずつ異なるけれども、上記の内容はその場で直接見物した人が語ったもので、虚説などでは毛頭ない。
あやしい古典文学 No.1024