『雲萍雑志』巻之一より

念仏坊主

 京都の近郊に岩鼻というところがある。そこの念仏堂の庵主を正念坊といって、もとは黒谷で修行した僧である。念仏の名手で、京の町へ托鉢に出るたびに、人々はその声の良さに感動して、米銭を多く施す。

 正念坊は、寺で飯を炊いても、わざわざ仏器に盛って仏に供えたりせず、飯を櫃に移して肩に担ぎ、持仏堂の前の位牌のあるところを、
「それ嗅げ、それ嗅げ」
と言いながら一回りしてから、人にも食わせ自分も食べる。茶湯の場合も同じだ。しかしながら、何であれ仏前へ持って行ってからでなければ、食べることはない。
 また、漬物の石がないときには、境内の石地蔵を持ってきて、
「いい味に漬けてくだされ」
と言って乗せておく。すべてそんな調子で、まったく物事にこだわらない。
 魚肉も平気で口にする。ただし、けっして寺では食べない。女と寝ることもあるのだろうが、寺には老婆を置くことも嫌って、男ばかりを下働きに雇っている。

 正念坊が書いた一枚起請文と辞世の歌がある。
    隠居一枚起請
 中国や我が国の智者の方々がなさったような隠遁ではなく、また、学問により道の真髄を悟っての隠遁ではない。『世の中の邪魔にならないようにして気楽に暮らそう』との、役立たず者の考えから隠居するのであって、ほかに何の理由もない。
 もちろん隠居の身にも世渡りがあるが、それはすべて衣食住の内で事足りる。衣食住のほかに欲深いことを望むのは、人々の布施の心にも外れるものだ。たとえ薦をかぶり、糟糠をなめ、他人の軒下に臥せっても、食うては寝、食うては遊ぶ人の世のありがたさを忘れたなら、身は安楽になるとしても、生きる甲斐がないというものだ。
    辞 世
 来て見ても来て見ても皆同じこと
    ここらでちょっと死んでみようか

 この僧、ただ者ではないと思われるが、都ではただ「念仏坊主」とばかり呼んで、その行状を知る人はまれである。
あやしい古典文学 No.1043