鈴木桃野『反古のうらがき』巻之二「栗園」より

絵師の三味線

 筆者の知友の葛飾北雅は優れた浮世絵師で、弟子も大勢ある。その中に栗園という人がいた。これも絵の上手で、よく北雅方に来た。
 あるとき、知人・友人が集まって酒など飲み、栗園は座興に、猿回しが囃子に使う三味線を見事に弾いた。みな感心して、どこで習い覚えたのかと訊ねると、
「これは、ずいぶん悲しい事情があって覚えたものです。それゆえ、ふだんは手に取らない三味線ですが、一生忘れることはないでしょう」
と応えた。
 深いわけがありそうなので、人々が話すよう促すと、栗園は次のように語った。

「ある年、絵の修行に出ることを思い立って、少しばかりの蓄えを持ち、絵箱・紙・筆・衣服を入れた行李を携えて旅立ちました。ところが、上方を目指す途中、伊豆の温泉に浴したところ、悪性の皮膚疾患に全身侵され、立居もままならぬほどになりました。やむをえず宿に逗留を続けて治癒するのを待ちましたが、しばらくは悪化の一途。その後なんとか快方に転じて、二ヶ月あまりでようやく足腰が立ったのです。そのときには、衣服は着破り、蓄えも尽き、絵の道具さえ売り払ったうえ、薬代や飯代で、宿に多額の借金ができていました。
 宿の主人に、これまで世話になった礼を述べ、借金の額を尋ねると、思いのほかに嵩んで三両あまりもありました。
『今は金銭がないので、絵を描いて、得た代価で払いたい。今しばらく逗留させてほしい』
と申し出ましたが、主人はいい顔をしません。
『あなたの絵がどれほどの値打ちかは知りませんが、そうした風流を好む人は、このあたりにほどんとおりません。三両分の絵を描くには、一月・二月ではすまないうえに、絵を望む人がいなかったら、半年・一年と待つことになるかもしれない。やっと三両の価を得ても、その間また三両ほどの飯代がかかっているから、結局のところ、いつになったら埒が明くか分からない。それより、この宿の下男になってはどうですか。一年勤めたら、給金三両を差し上げる。それでまず飯代・薬代を支払い、さらに半年も勤めれば、路用の金も見苦しくない衣服も用意できる。そのときに江戸へ帰ればよい。難儀をした人ゆえ、悪いようにはしない』
 私は、突然冷や水を浴びせられたような気がしました。頼るあてのない我が身の上を思い知らされて、おぼえずさめざめと涙を流したのです。
 そのときでした。隣の座敷に泊まっていた猿回しの男が、私たちのやり取りを漏れ聞いて、こう申しました。
『なんと気の毒な人だ。おまえさんが、わしの言うとおりにするなら、その三両の代は払ってあげよう。じつは、わしは先月まで一人の三味線弾きを連れていたが、病気で死んでしまった。その者の代わりになってもらいたいのだ。わしが今から三味線を教えて、弾けるようになり次第、おまえさんを連れて北国をずっと廻り、江戸へ赴く。お互いに都合がいいことだから、気が進まないであろうが、申し出を請けてもらいたい』
 それからというもの、昼も夜もひたすら三味線を習いました。一心を注いで稽古したので、これまで手に取ったこともない三味線でしたが、十日ばかりでみごとに弾けるようになりました。
 さて、猿回しに従って北の国をいくつとなく廻り歩いて、ついに江戸近くまで来ました。千住の宿の居酒屋へ入ると、猿回しは、
『おまえさんは、こんな卑しい業をする人には見えない。知る人のない場所なら気にならなくても、江戸に入れば、さぞかしきまりが悪いだろう。わしと行くのはここまで。衣服を買って着替えなさい』
と、金三分を呉れました。ありがたさが骨身に沁みて、伏し拝んで礼を言い、
『あなたの郷里はどこですか。名は何と……』
と尋ねましたが、
『名は、ずっと太夫とばかり呼ばれて、ほかに名はない。故郷というのも定かでない。幼少のときから先代の太夫に連れられて諸国を廻ったから、父母兄弟もいない。身寄りといったら、この猿一匹だけだ。さあ、別れに一杯酌もう』
 互いに酒を酌み交わし、最後に、おもしろく猿を舞わせ、唄と三味線で囃子ごとをしてから、猿回しの男は、私の名前も住まいも聞かず、風のように去ってゆきました。
 こんないきさつで覚えた三味線ですから、死ぬまで忘れることはありません。酒を飲んで興じたときに弾いたりしますが、弾くたびに涙がこぼれるのです。」
あやしい古典文学 No.1044