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『談笈抜萃』上より |
雪が降る |
大阪、新町遊郭の茨木屋に、雪ノ戸太夫という遊女がいた。 平野町辺りに住む鍵屋何某は、よく新町へ通って、すみ平という揚屋で遊宴を楽しんだが、美貌が評判で売り出し中の雪ノ戸太夫をたびたび招いても、先約が多数あってなかなか来てくれなかった。 やっと八月七日に約束が取れて、鍵屋がすみ平へ出かけていくと、雪ノ戸もやって来た。 鍵屋が「この日を待ちかねた」などと盃をさすと雪ノ戸も笑って受けて、あれこれ語るうちに夜も更けた。 そこで寝所に入って床に就いたが、雪ノ戸は、遊女らしいことを何一つせぬまま、すやすやと寝入った。鍵屋が心外に思って揺り起こすと、目を覚まして何やら口の中で言い、またすやすや眠って正体がない。 大いに腹を立て、今度は荒々しく揺すぶって起こした。その途端、雪ノ戸はむくむくと起き上がり、目を剥いて鍵屋をはったと睨みつけ、 「おおっ、雪が降る!」 と大声をあげた。 その顔色は真っ赤、両眼は皿のごとく、口は耳元まで裂けて、まことの鬼女の相貌だったが、それっきり言葉はなく、また打ち伏して眠り込んだ。 鍵屋は胆をつぶし、がくがく震えながら寝所を出て、ものも言わずに逃げ帰った。 翌朝から、鍵屋は病の床に臥した。 店の者が、何があったかと雪ノ戸に尋ねても、いっこうに要領を得なかった。その夜に限って無性に眠たく、寝まい寝まいと思いつつ前後を覚えず、朝起こされて驚いたと言うのである。 このことは大いに世間の噂となったので、雪ノ戸はしばらく店に出なかった。その後の話では、すみ平の男衆の一人が、雪ノ戸に借金を頼んで断わられたのを根に持って、あらぬ噂を流したとも言われる。 それにしても、「雪が降る」と口走ったのは、突拍子もないことに思える。しかし、じつは分かりやすい言葉だと人々は言う。 そのわけを聞くと、去年まで鍵屋にはおゆきという妾がいたが、はなはだ嫉妬深い女で、いろいろ恐ろしいことを仕出かした。よって、やむをえず暇を出したところ、激しく恨んで朝夕の食を断ち、ついに去年の秋に餓死した。このたびの遊女の名が雪ノ戸だったことに乗じて、おゆきの怨霊があらわれたのだろう、と。 そんなところかもしれない。鍵屋は結局、早死してしまったらしい。 |
あやしい古典文学 No.1056 |
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