井出道貞『信濃奇勝録』巻三「匠人噛蛇」より

歯を鳴らす男

 享保のころ、信州上田の房山村に、五郎右衛門という大工がいた。
 五郎右衛門が上田城内の屋敷修理に用いられ、夏日、城に詰めていたときのことだ。
 休憩時に大工たちは、木枕の両端を指先でつまんで引き合う「枕引き」をして遊んだが、五郎右衛門に勝つ者はいなかった。
 翌日、大材の上に置いた枕を、大工の一人が五郎右衛門と引き合った。大材の上には、七八人が蹲っていた。なかなか勝負が決しなかったが、さいごに五郎右衛門が渾身の力で引くと、大材上の者はすべて横ざまに倒れ、枕は五郎右衛門の手にあった。
 これは、大工たちがひそかに謀って、釘で枕を大材に打ちつけていたのである。倒れた大工たちも見物の者も、みな手を叩いて五郎右衛門の怪力を讃えた。

 また、ある日の休み時間、五郎右衛門は暑さをしのぐため、城の百間堀で水浴びした。
 堀の深みに潜ったり浮かんだりして遊んでいると、水中で突然、大蛇が巻きついた。腰から脚まで絡まれて動きがつかない。もちろん刃物の一つも手にしてないから、大蛇の首に抱きついて、歯でもって首に噛みついた。
 異変に気づいた仲間たちは、堀の水が紅に染まっていくのを見て悲嘆にくれたが、どうすることもできない。
 しばらくすると五郎右衛門が、噛み切った大蛇の首を左手に持って浮かび上がった。右手で泳いで岸に上がる顔色は、いつもと少しも変わらない。
 だれもかれも、その勇猛に感嘆せずにおられなかった。城主も五郎右衛門の勇を賞して、褒美を下さったとのことだ。
 しかし、それ以来、五郎右衛門は歯を鳴らすことが癖になった。人と談話する間もガチガチと歯を鳴らし、十七年を経て世を去った。
あやしい古典文学 No.1069