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人見蕉雨『井窓夜話』巻之上「有馬戯談」より |
裸の医者 |
北邑意庵という、近江生まれの医師がいた。明和のころに江戸へ出て、阿部川町に家を借りて医業を営んだ。病気の診断に優れ、当時の流行り医者となって、『世の中に自分にまさる医者はおるまい』との慢心を抱いていた。 ある日の夕暮れ、某大名家からの使者だといって、駕籠を用意した立派な迎えが来た。意庵は駕籠に乗り込んで、使者とともに出かけた。 駕籠は、門前から飛ぶように速く走った。意庵は『急病だからこんなに早く行くのだろう』と思っていたが、そのまま夜になっても、どこへ向かうのか知らさず、立派な迎えにしては提灯もともさない。 不安になったころ、ふと駕籠が止まり、意庵は手を掴まれて、引きずり下ろされた。 何者の狼藉かと見るに、尻をからげのいかにも無頼の男たちだ。『しまった、盗賊・追剥の謀にかかったか』と四方を見回したが、人の往来などまるでない荒野原である。 『この闇夜だ。下手に声をあげて、二つとない命をとられてもつまらない』と自分に言い聞かせているうちに、男たちは意庵を丸裸にして傍らの松に縛りつけ、衣装はもとより薬箱・褌までも奪い取り、すたこらさっさと立ち去った。 しだいに夜は更ける。寒風が身に沁みて、がたがた震えわなないていると、遠く微かに火の光が見えた。提灯の火には見えないが、だんだんと近づいてくる。『人を化かす燐火か、猟師がともす篝火か』とよくよく見れば、飛脚の者のようで、二人連れで松明をともし、話をしながらやって来た。 意庵は、助けを求めて叫んだ。声を聞いて飛脚が近づいて見れば、坊主のような男が丸裸で縛られている。そうなったいきさつから名前や住所まで語るのを聞いて、飛脚は気の毒がり、一人は肌着を、もう一人は三尺帯と褌を与えた。 意庵は丁寧に礼を言ってから、 「たいへんな災難に遭ったものです。ここはいったいどこですか。武蔵国の内とは見えない野原ですが、家を出てからの時間を考えると、そんなに遠方へ来たとも思われない。ここはどこか、家へ帰るにはどう行けばいいか、教えてください。あらためてお礼をしたいので、お二人の名も知りたいものです」 と尋ねた。 「お話をうかがうに、お宅へ迎えに来たのは、まず人間ではありますまい。ここは越中の三島野原という所です。われわれも遠い国の者だから、再びお目にかかることもないでしょう。そのうち夜も明けます。まず人里へ出て案内を頼み、帰国されるがよい」 こう言って、飛脚たちは別れて行こうとして、去り際にもう一言付け加えた。 「この野原はとりわけ物騒な場所で、悪者がまた来ないとも限らない。夜が明けるまでは、草深く隠れていなさい」 意庵はつくづく思った。『世の中には、情け深い人がいるものだ。その一方で、いかに盗賊をはたらくとはいえ、一糸も残さず剥ぎ取るとは、無慈悲にも程がある。恨めしいことだ。自分としては、天狗の類にこんな咎めを受ける覚えはないのだが…、いやまてよ、ふだん医師の業をなして我に勝るものはあるまいと自負しているのを、天狗が勝手に憎んで、こんな目に遭わせたのかもしれない』。 さて、悪者がまた来るかもと言われたことが恐ろしく、その場からそっと立ち去って、あてどなく歩み行くと、向こうに人家があるらしく、灯の光が見えてきた。 そこは家が建ち並んだ町であったが、みな寝静まって、四方寂として音もない。灯の光がある家の前まで来て、壁の隙間から中の様子を覗き見ると、雲突く大男が五六人車座に居並んで荒くれ声をあげ、花札博打に興じていた。 黒い破れ小袖を着た者、月代(さかやき)を二三寸伸ばした者、大脇差を前に置いた者、みな恐ろしいことこの上ない。意庵は覗きながら、寒さもあってガタガタと震えだす。その音を聞きつけ、誰かいるぞと、男どもが出てきた。 意庵はもはや逃げる気力もなく、やすやすと捕まった。男どもは見かけどおり悪いやつらで、また肌着も帯も褌も奪われ、とっとと失せろと追い払われた。 やがて東の空が白んで、夜もほのぼのと明けた。向こうに竹林が見えて、きれいな柴折戸の門があった。 丸裸で、手で前を隠して、そろそろと門を入った。すると、中には年ごろ十六くらいの娘が何人もいた。いくらなんでも恥ずかしすぎる。 娘たちが、意庵を見て腹を抱え、手を打って笑い騒ぐところへ、五十ばかりの男が出てきた。 「まあ静まれ。この坊主、狂乱者とも見えない。何かわけがあってのことだろう」 そこで意庵が、起こったことをありのままに話すと、なんと気の毒なことだと、古い縞の袷(あわせ)と古手拭を呉れた。空腹なので握り飯を一つ乞うたところ、茶漬けをふるまい、酒まで出してくれた。 ようやく人心地がつき、昨夜からの疲れか、柱にもたれてとろとろと居眠りしかけた。さっきの男が、 「少し休んではどうか。目が覚めたら、道を教えて帰らせてあげよう」 と言って木枕などを出してくれたので、しばしと思って眠り込んだ。 目が覚めたときは、はや昼下がりだった。道を教えてくれるはずの男も、用事があって出かけたらしかった。老婆が一人いて、言うことには、 「向こうの村外れに渡し場がある。川を越えたところに旅籠屋があって、それは伊勢参りの宿だから、毎日五人十人と諸国の人が泊まる。そこへ行って道を尋ねるとよい」と。 意庵は丁寧に礼を言って、人目を恥じるのか、古手拭で頬かむりをして出て行った。 教えられたとおり、渡し場があった。船に乗って向こう岸に着いたが、船頭に酒手を求められて、困った。 「難儀に遭った者で、今は一文もお助けできない。銭を得てから倍にして払わせてもらう」 と言うと、あいにく船頭は怒りっぽいやつで、大目玉を剥き、 「ふざけた口をきく野郎だ。小汚いなりをして、『銭を得てから倍に』とは、馬鹿にするな。おまえにお助けなど頼んでおらぬわ。俺は少しの酒手を稼いで、まっとうに暮らす男だ」 と罵りながら、鉄拳を数発ふるって、意庵をぶちのめした。 この騒ぎに、人が大勢集まった。中に一人の老人がいて、大声をあげた。 「こいつ、わしのせがれの袷を着ているぞ。手拭もだ。せがれは先だって遊びに行って、裸にされて帰ったのだ」 人々は口々に、 「なんにせよ、ろくなやつじゃない」 と言い合って、意庵の手を取り足を引き、はるか向こうの松原まで連れて行くと、またまた丸裸にして、頬かむりを取ったら、つるつる頭だった。 「こりゃ大笑い。こいつ、坊主か医者か。頭を丸めているぞ」 皆どっとどよめいて去っていった。 意庵は、度重なる災難に身も心も弱り果てたが、日も西に傾いて、そのままでもいられず、立ち上がって歩き出した。 また向こうに小さな門があった。中へ入ると、生い茂る樹木に奇石清流を配した見事な庭園で、花々に鳥鳴き、楼上より琴の音が聞こえてくる。どれほど高位の方の邸宅かと思われた。 驚いた引き返そうとしたとき、一人の侍が見咎めて怒った。 「汚い坊主だ。御前近くまで、このような者を誰が通した。狂人ではないか」 大勢が出てきて、意庵は捕らえられ、石畳の上に引き据えられた。 主とおぼしい人が現れて、さきほどの侍に委細を尋問させたので、意庵は逐一を申し上げた。 「それはまた、世にも珍しい受難、憐れむべきことである。おそらく狐狸に魅入られたのだ。すぐに家に帰れるよう計らおう。しかし道中でも、家に帰ったときも、医者らしくなくては面目が立つまい。万端用意して、今夜じゅうに旅宿まで送り届けてつかわす」 主はそう言って、小袖一重ねと風呂敷包み一つに、薬箱まで持たせ、駕籠で送らせた。 その駕籠が速いこと速いこと。あっという間に何処かへ着いて駕籠を据え、送りの者は無言で立ち去った。 もはや周囲に人の気配がない。意庵はいよいよ不審で、『昨日からこのかた、奇怪なことばかりで、気が変になりそうだ』と思いつつ駕籠を出てみたら、自分の家の門前だった。 首をかしげながら中に入ると、帰りの遅いのを心配していた家人が、 「どこまでいらっしゃったのですか」 と尋ねたが、意庵は呆然として、腑抜けのように黙り込んだ。 邸宅で貰った小袖や薬箱をあらためると、みな自分のものだった。風呂敷包みを開けたら、最初に飛脚から貰った品々、次に貰った縞の古袷と古手拭がすべて入っていた。 『騙りや盗賊の仕業なら、盗ったものを返すはずがない』と思い、後にいろいろ人に聞いたところ、そのころの久留米の殿様が突拍子もない悪戯に凝っていて、ときどき同様な目に遭う人がある、とのことだった。 |
あやしい古典文学 No.1074 |
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