古賀侗庵『今斉諧』補遺「魂盥手」より

手を洗うしぐさ

 北村平太という人の妻が重い病気にかかり、ある夜、危篤に陥った。
 もはや末期というとき、妻はふと目を見開いて、看病の人に言った。
「わたしはもう助からない。それは分かっています。でも、垢で汚れた体で天に帰りたくありません。せめて手を洗い、口をすすいでおきたい。急いで水を持ってきてください」
「そんなに悲観するものではない。今は病状が重くて、じっと寝ていないと危ないから、少しのあいだ待ちなさい。そのうち水を進ぜよう」
 妻はひどく苦しげに、なおも水を求めた。しかし、看病の人は肯わなかった。

 突然、戸外の水鉢のところから、物音が聞こえた。柄杓で水を汲んで、手を洗っているようだった。
 外へ駆け出して見ると、一団の転々たる火が、水鉢の上に集まって蠢き、それは、ものに憑かれた女が水を汲み流すさまのようだった。
 病室に戻って見ると、妻は昏睡の中で、無心に手を洗うしぐさを続けていたが、やがて息絶えた。
あやしい古典文学 No.1076