西村白烏『煙霞綺談』巻之二より

胴斬り

 天正のころ、小野お通という女が「牛若十二段」というものを作り、それから浄瑠璃が始まった。その後、浄瑠璃に人形を合わせて操り芝居を行うようになって、今、繁華の地でさかんに流行している。

 僻遠の地でも、ときどき操り芝居が廻ってきて興行する。
 遠江国海辺植松村というところでの興行していた一座の、丹後という浄瑠璃太夫は、いささかの遺恨あって、同地で十郎左衛門という者の腰を抜き打ちに斬り払った。
 十郎左衛門は、閃く太刀影に驚き逃げ走ること三町ばかり、小さな溝を跳び越すときに、体の上下が離れて死んだ。
 丹後は、安楽寺という浄土宗の寺の和尚を招いて十念を授かり、心静かに切腹した。
 その始終、少しも臆したところなく、腹を十文字に切って後、喉笛を掻き切って絶命した。遺骸は安楽寺に葬られ、墓碑は今もある。

 十郎左衛門が慌てて逃げるとき、すでに胴斬りにされていた証拠に、衣服の下半分は道に落ちたとのことだ。
 斬った刀をある人が持ち伝えているが、さして上作とも見えない。見かけと違ってよほど切れ味鋭くできたものなのか、斬った丹後の手際がよかったのか、いずれにせよ、三町も走ったのは不思議である。
 天和三年八月の出来事であった。
あやしい古典文学 No.1086