『百家琦行傳』より、「虫食いの隠居」

『百家琦行傳』より

虫食いの隠居

　天明･寛政のころ、江戸青山の某組屋敷の近くに、武家の隠居が住んでいた。俗名を武谷又三郎といった。
　この人には奇癖があって、とにかく虫を食べることを好んだ。
　朝夕に前栽を掃除しては、毛虫･芋虫･はさみ虫・蜘蛛･蝶･とかげ・ひき蛙など、何であれ虫さえ見れば、たちまち捕って食う。
　小さい昆虫は、羽と足と触覚を抜いてそのまま食う。蜘蛛なども同様である。毛虫は毛を焼いてから食う。ひき蛙は腹を割いて内臓を棄て、皮を剥いて醤油をつけ、焼いて食す。
　だから、家には虫というものが一切おらず、座敷に蝿一匹飛ぶことがない。みなこの老人が食い尽くしたからである。
　自宅の前栽はもとより、両隣の前栽まで虫一匹生じない。「願わくば蚊と蚤も捕ってもらいたいものだ」と冗談を言う人もあった。

　数ある虫の中で第一の好物は、蛇だった。皮を剥き骨をとり、二、三寸程ずつに切って竹串に刺し、炙りものにして食うのである。
　筆者も、この老人に蛇の蒲焼をもらって食ったことがあるが、たいそう美味なものだった。
　世の普通の人は釣竿を担いで川漁に行くところを、この老人だけは野山を歩いて蛇を捜す。捕らえたのを持ち帰って調理し、酒を飲んで楽しむ。
　もともとは御家流書道の達人で、若い頃には弟子もそこそこあったが、こうした奇癖のせいで、だんだん誰も来なくなったらしい。
　「どうしてそんなに虫食いを好むのですか」と訊かれて、老人が答えて言うことには、「世の中には獣肉さえ食する人がある。それと比べれば、虫はずいぶん上品なものではないか」と。
　寛政末ごろに六十余歳で死去し、熊野横町の高徳寺に葬られた。

あやしい古典文学 No.1101

座敷浪人の壺蔵

あやしい古典の壺