虎巌道説『燈前新話』「会津某妻記」より

物影の鏡

 昔、奥州会津に某という武士がいた。
 ある日、郊外を遊び歩いて山道を帰ってくると、年のころ十七、八の女が後をついて来た。面立ち美しく、肌は艶やかで、豊かな黒髪は輝くばかり。それが愛くるしい瞳で見つめるので、某はたちまち恋情にとりつかれた。
 しばらく行って茶店に入ったら、女も入って、茶を入れてくれた。『さては、この茶屋の女だったのか』と思ったが、店を出ると、また女もついて出た。
 そこで、
「おまえは、どこの者か。いったいどこへ行くのか」
と尋ねると、女は応えた。
「わたしは名もない下民の子です。継母がひどい人で、毎日苛め使われ、堪えられずに家出しました。どこかへ奉公しようと思うのですが、あなたさまが憐れんで下女に雇ってくだされば、こんな嬉しいことはありません」
 某は喜んで承知し、女を家に連れ帰った。父親の許しを得て正式な妻にしようとしたが、女がとめた。
「今はまだ、お父上には話さないで。もし話したら、わたしは追い出されてしまうかもしれません。あなたと一緒にいられなくなるのは厭です」
 二人は内密に夫婦の契りを結び、睦まじく歳月を過ごして、一人の男児も得た。

 秋のある夜半過ぎ、女はふと起きて庭へ下りていった。
 しばらくして女が悲鳴をあげながら戻り、家じゅうが目を覚まして、集まって口々にわけを尋ねた。
「小用に行こうと急いで庭に下りて、うっかり足に怪我をしました。痛みがひどくて…」
と言うので、傷を見ようとしたら、女は固く拒んだ。
 そうして朝になると、親しい友人が、会いたいといって訪ねてきた。某は妻が病気で取り込んでいるからと断ったが、是非にもと言うので、やむを得ず会った。
 友人は言った。
「昨夜、銃を担ぎ、犬を連れて、鹿狩りに行った。夜半過ぎに帰ってきて、貴邸の傍を通ったとき、垣根の角に何かいるのに気づいた。色や形ははっきりしないが、とにかく二つの大きな眼がギラギラ光っていた。犬は恐れて進むことができない。拙者もまた驚き恐れて、銃を構えて狙い撃つと、光る眼は消え失せた。夜が明けてから現場を見に行ったら、地面が血に染まっていた。また、円い鏡が落ちているのを拾った。血のあとを辿ると、貴邸の塀の上を越していた。もしや幽陰のところに怪物が潜むのかもしれない。疑うなら、これを見るがよい」
 友人は、拾った鏡を取り出した。その鏡は、人の姿を映さず、物の影ばかりを映し出した。
 某も大いに怪しみ、その鏡を借りると、寝室へ赴いて妻に問いただした。
「おまえは昨夜、何か失くしたのではないか。友人が垣根の角のところで、これを拾ったそうだぞ」
 その瞬間、女は跳ね起きて鏡を奪うと、たちまち戸外へ走り去った。その疾さは雷撃のようだった。

 女の行方は、ついに知れなかった。
 生まれた男児は成長し、父のあとを継いだ。
あやしい古典文学 No.1102