中村新斎『閑度雑談』上巻より

太鼓の達人

 加賀の国の某所に、井筒屋勘六という者がいた。
 幼いときから能楽の太鼓を打つことを好み、寝食を忘れて稽古した結果、達人の域に達したと世間の皆が言いそやすまでになった。

 あるとき勘六は、海を渡る旅に出た。大切な太鼓を身に離さず持って行ったのは言うまでもない。
 舟は、順調に港を出た。ところが、すでに岸をはるかに離れたところで、どういうわけかぴたりと止まって、少しも進まなくなった。
 船頭はうろたえた。
「ああ、えらいことだ。悪魚が下に入って、舟を背負ってしまいましたぞ。やがて舟を覆して、人を取って喰うのです。こういうことは滅多にないのに、今たまたま禍に遭うとは情けない。とにかくもう助からないから、皆々念仏なさいませ」
と、真っ青な顔で言ったから、船中の人は驚き嘆き、どうしようと慌てふためいて、声を上げて泣き叫んだ。
 勘六は、ひとり自若として太鼓を取り出し、『この世の名残に打って死のう』と、心を澄まして撥を振り上げ、渾身の掛け声とともに打ち下した。
 太鼓は、天に届き、海の底まで貫き通すごとく鳴り轟いた。すると不思議や、舟はたちまち動き出した。
 船頭は生き返った心地で、太鼓に力づけられるままに急ぎ櫓を押し立て、ついに舟はつつがなく目的の港に着いた。
あやしい古典文学 No.1105