井出道貞『信濃奇勝録』巻五「野茂利」より

のもり

 宝暦の初めごろ、信濃の中之条村でのことだ。
 夏のある日、吉左衛門という者が千曲川の支流を渡っているとき、突然なにかが水中から頭を出して、矢のように飛び来り、両脚にまといついたかと思うと、翻って頭を上げた。口をかっと開き、目をいからせて、まさに喉に咬みつこうという勢いだ。
 吉左衛門は、とっさにそのものの両耳を捕らえて防ぎつつ、大声で助けを呼んだ。
 近くで草を刈っていた男が、鎌を提げて走ってきたが、恐れて近づこうとしない。「鎌を貸してくれ」と頼むと、投げてよこした。その鎌を拾おうにも、手が届かない。
 見れば、手近に一つの柳の切り株があった。切り口の鋭さはまるで刃のようだ。この切り株に突き刺してやろうと思った。
 焦らず時間をかけて、少しずつ頭を貫き、もう十分というところで手を離して、その場を逃れ去った。
 そのものの体長は一メートル半くらい、背中が鉄のような黒色で、腹は朱色。四足があって竜盤魚(いもり)に似ていた。臭気が凄まじく、吉左衛門の体についた臭いは、年月を経ても消えなかった。

 一説に、野茂利(のもり)というものだそうだ。これは、竜盤魚(いもり)、守宮(やもり)にならって名づけたのだろう。
あやしい古典文学 No.1107