古賀侗庵『今斉諧』巻之三「加州山中怪一〜三」より

加州山中怪

 加賀金沢の侍 篠原庄兵衛は、剛勇・豪胆にして並外れた腕力の持ち主だった。猟を好み、たびたび深山に入って獣を追った。
 あるとき、谷川の淵のほとりを歩いていると、空中を飛び来るものがあった。それが淵に飛び込んだ水音に驚いて、庄兵衛が目を凝らしたときには、もはや沈んでいた。
 いったい何だったのか、釈然としない。着物を脱いで水に潜った。探し回って、一個の陶器の棺を見つけたので、そいつを石で叩き割って、山を下りた。
 家へ帰る途中で日が暮れた。城門の傍らを通ったとき、葬送の列に出遭ったが、川に飛び込んだ棺とかかわりがあるのかないのか、それは分からなかった。

 また、庄兵衛が山深く分け入ると、何者かが空中から呼びかけることがあった。
「おおい、しょおべえ〜、しょおべえ〜」
 その声に、一度思わず、
「なんだぁ〜」
と応えたところ、たちまち怪風吹き荒れ、凄まじい豪雨が降りつけて、山も谷もひとしきり震動した。
 これに懲りて、以後は呼ばれても一切無視した。するとやがて、怪異は起こらなくなった。

 さらに、あるとき庄兵衛は、人っ子一人いない深山の渓谷を行った。
 背の高い葦が密生して壁のごとくなった場所で、その葦の壁の向こうから大勢の声がした。数十人が車座になって語り、笑っているようだ。
 こんな山奥で騒ぐのは何者だろうと怪しみ、見に行こうと思ったが、葦の下の泥水で足がおぼつかなく、行くことができない。連れてきた猟犬を行かすこともできない。そこで、両手で犬の四足を掴み、力いっぱい葦の壁の向こうへ投げた。
 犬は向こうへ届くやいなや、間髪を入れず投げ返された。また投げやると、やはりただちに投げ返してくる。それを繰り返すうち、犬は疲れ果て、気息奄々となった。
 さすがの庄兵衛も、これは只者でないと大いに恐れ、走って家まで逃げ帰った。犬は薬をやって治療したけれども、ついに助からなかった。
 その後、庄兵衛は二度と猟をしなかった。
あやしい古典文学 No.1113