『宇治拾遺物語』巻第十三「慈覚大師纐纈城に入り行く事」より

纐纈城奇談

 昔、慈覚大師は、仏法を学んで世に広めようと、中国へ渡った。
 折悪しく、唐の会昌年間、皇帝武宗は仏法を滅ぼそうと寺院を破壊し、僧・尼を捕らえて殺したり無理やり還俗させたりした。
 大師も捕らえられそうになって、とある仏堂に逃げ込んだ。捕吏が堂の中まで追ってきたので、仏像群の中に紛れて一心不乱に不動尊の加護を念じた。
 捕吏は堂内を捜しまわるうち、ひときわ真新しい不動尊像が安置されてあるのを見つけた。あやしく思って抱き下ろすと、仏像は大師のもとの姿に戻った。
 捕吏が驚いて、事の次第を皇帝に奏上したところ、皇帝は、
「他国の僧であるから、すみやかに追放するように」
と命じた。

 追い放たれた大師が、はるかな山を越えていくと、築地塀を高くめぐらした人家があった。門のところに人がいたので挨拶すると、その人は尋ねた。
「ここは、さる長者の屋敷だ。あなたは、どういう坊さんかな」
 大師が、
「日本国から仏法を学びに来た僧ですが、このたび思いがけない乱に遇って、しばらく身を隠さねばならないのです」
と応えると、
「ここはめったに人の来ない所だから、しばらくここにいたらいい。世の中が静まってから都へ戻れば、また仏法を学べるだろう」
と言ってくれた。
 大師は喜んで門を入った。するとその人は、すぐに門を固く閉め、奥のほうへ向かった。ついて行くと、途中にはさまざまな家屋が建ち並んで、大勢の人が賑やかに立ち働いていた。
 大師は傍らの一軒の空家に案内され、そこに住むことになった。

 落ち着く場所があって一安心したものの、そこが仏法を学ぶにふさわしい場所かどうか気になった。
 出歩いてみたが、仏経を収めた所はないし、一人として僧侶の姿もない。そうするうち、敷地の裏手の山に沿って、変わった家があるのを見つけた。
 近寄って耳を澄ますと、多数の人の呻く声が聞こえる。これは…と思って垣の隙間から覗いたら、人を縛って上から吊り下げ、下に壺を置いて、垂れ落ちる血を貯めているのであった。
 ぞっと身の毛がよだって、
「いったいどうしたのですか。何でこんな目に…」
と声をかけたが、誰も応えもしない。
 また別の個所で耳を澄ますと、やはり同じように呻く声がする。覗き見れば、ひどく青ざめて痩せ衰えた者が、大勢横たわっている。
 中の一人を招き寄せて、
「これは何事ですか。あなたがたがこんな酷い仕打ちに遇うのは、どういうわけですか」
と尋ねると、その人は木の切れ端を手にし、細い腕を伸ばして、土にこのようなことを書いた。
『ここは纐纈(こうけち)城だ。ここへ来た者には、まず口がきけなくなる薬を食わせ、次に太る薬を食わせる。その後、高いところに吊り下げ、体の所々を切って血を滴らせる。その血で布に纐纈染めを施して売るのだ。我らはそれを知らずして、こんな姿にされたのだ。
 御僧、気をつけろ。出される食い物の中に、胡麻のように黒っぽいものがある。それがものを言えなくする薬だ。そいつが出たら、食う真似をして捨ててしまえ。それからは、誰が何を言いかけてきても、ただ呻きに呻いてみせるのだ。あとは、なんとか逃げる支度をして逃げるしかないが、門は固く閉ざされているから、とてもじゃないが門は通れないと思え。…』
 大師は詳しく教えられて、時がたったので自分の住み家へ立ち返った。

 やがて食物が運ばれてきた。教わったとおり、毒薬とおぼしいものがある。食うふりをして懐へ入れ、あとで捨てた。
 人が来てものを問うたので、ひたすら呻いてみせた。相手は薬が効いたと思って、今度は太る薬をいろいろにして食わそうとした。これもまた、食うふりをして捨てた。
 人が立ち去ると、東北の方角に向かい、
「わが故国、比叡の山の三宝よ、助けたまえ」
と手を擦って祈願した。
 すると、大きな犬が一匹、忽然と現れて、大師の袖をくわえて引いた。『何かわけがあるのだな』と思って、引かれるままについて行くと、思いがけない場所に水門があって、そこを抜けて屋敷の外へ出ることができた。
 外へ出た時には、犬の姿は失せていた。

 大師は、『どうにか助かったらしい』と安堵しつつ、足の向く方へと走った。
 はるかに山を越えて、人里に行き着いた。出会った人が、
「そんなに走って、いったいどこから来たのですか」
と訊くので、
「かくかくの場所にいて、逃げてきました」
と話すと、
「それは驚いた。大変なことですよ。そこは纐纈城といって、行った人が帰ってくることはありません。並々でない仏の助けがなければ、逃げ出せないのです。ああ、尊いお方だ、御僧は」
と拝んで去った。

 それからさらに逃げていって、また都へ入り、隠れ住んでいたが、会昌六年に武宗が崩じ、翌大中元年に宣宗が帝位につくと、仏法を滅ぼすことは止んだ。
 大師は思いのままに学んで、年月を経て日本へ帰り、真言を広めた。
あやしい古典文学 No.1114