『古今著聞集』巻第十「佐伯氏長強力の女大井子に遇ふ事…」より

大井子

 佐伯氏長という力士が、初めて「相撲の節会(すまいのせちえ)」に召されて、越前から京都へ向かう途中のことだ。
 近江国の高島郡石橋を通ったとき、きれいな娘が川の水を桶に汲んで、頭に載せて行くのに出会った。氏長は娘をちらと見ただけで心がときめいて、そのまま何もせず通り過ぎる気になれなかった。
 馬から下りて近寄り、桶を支えている腕に触れると、娘は笑って、少しも嫌がるそぶりをしない。いよいよ愛しく思い、娘の腕をさらにしっかりとつかんだ。
 すると娘は腕を下して、氏長の手を脇に挟み込んだ。『なんのつもりだろう?』と思ってしばらくそうしていたが、いつまでも挟んだまま行くので、手を引き抜こうとした。ところが、おそろしく強く挟んでいて、まったく抜けない。しかたなく、おめおめと娘に引きずられて行った。
 やがて、娘は家に入って、水桶を置いてから、やっと手を解き放してくれた。
「あんな悪ふざけをするなんて。あなた、どこの何者なの?」 
 間近で微笑みながら尋ねる様子は、それまでにまして可愛らしい。
「おれは、越前の者だ。宮中の相撲大会に、国々から力自慢が召される中に選ばれて、都へ行くところだ」
 氏長が応えると、娘はうなずいて、
「ふうん。でも、それは危ないわね。都は広いから、世にもまれな大力がきっといる。あなたも全然だめというわけじゃないけど、そんな相手に立ち向かえる器量じゃないわ。まあ、こうして出会ったのも、きっと前世の縁があってのこと。相撲大会までまだ日があるなら、ここに二十日ほど泊まっていくといい。その間に、もうちょっと力がつくように養ってあげる」
と言う。日数はあったし、娘に心惹かれてもいたので、勧められるままその家にとどまることにした。
 その夜から強飯(こわめし)をたくさん炊いて、娘がみずから握り飯にして、氏長に食わせた。しかしそれは、あまりに堅く握ってあって、どうにも歯が立たないのだった。
 はじめの七日は、まったく食い割れなかったが、次の七日から、やっとこさ食い割れた。その次の七日には、余裕をもって食うことができた。
 このように二十一日の間、よくよく力を養って、
「これでよし。よほどの大力の者と立ち合っても、なんとか勝負できるよ。さあ、行きなさい」
 娘の言葉に励まされ、氏長は勇躍、京都へ向かった。

 この娘は高島の大井子といって、村内に田などを多く持っていた。
 ある年の田んぼに水を引く時節、村人がさかんに水争いをして、大井子の田に水を割り当てなかった。
 大井子は夜に紛れて、一辺が六七尺ある大石を運んできた。それを水の取り入れ口に横向きに据えて、他人の田へ行く水をせき止め、自分の田へ行くようにした。大井子の田は、たちまち大いに潤った。
 次の朝、村人たちがそれを見て、大騒ぎになった。水路にがっしり嵌り込んだ石を引きのけようにも、百人がかりでも難しく、また、そんなことをすれば田がみんな踏み荒らされてしまう。
 どうしようかと相談のあげく、村人たちは大井子に謝罪し、
「これからは、必要なだけ水を取り込んでいいから、あの石をどかしてもらいたい」
と頼んだ。
 大井子は承諾して、また夜に紛れ、石を引きのけた。その後はずっと水争いが起きず、田が涸れることはなかった。
 この出来事こそ、大井子が怪力を示した最初である。かの大石は「大井子の水口石」として、同村に今もある。
あやしい古典文学 No.1116