堀麦水『三州奇談』一ノ巻「温泉馬妖」より

温泉馬妖

 加賀山中温泉に、高屋何某という宿屋がある。隣は町屋という。ともに旅客を泊める湯元の宿である。
 山中温泉は毎年、正月には夥しい客が押しかけて、宿という宿が相撲場のごとくひしめき合う。近郷からも遠方からも、米の公納を大晦日までに済ませた人々が、連れだってここの湯に入りに来る。
 正月七日から十二三日まで、宿ごとに何百人という客を泊めるのであるから、宿はみな畳をあげて筵を敷き、部屋の仕切りもあらかた取り払ってしまう。
 客は昼夜を問わず湯に入る。誰も寝具など借りず押し合いへし合いして、寒いと思うたびに湯に駆け込む。庭も二階も人で充満し、みな土民の賤しい者ばかりで似通った風体だから、宿の方でも顔を見知って見分けることができない。それゆえ、宿を取り違えて何日も隣の家に寝て、出立の時に主人の名を聞いて驚いたなどという笑い話も多い。

 享保十二年か十三年の正月のこと。
 高屋も町屋も例年どおり客が詰めかけていたが、ある夜、高屋の奥座敷から、
「放れ馬が入り込んだ。踏まれるな。」
と騒ぎだし、次の間も驚いて総立ちとなった。
 なにしろ夜半過ぎの暗闇の中だから、互いに踏み合っては、どちらも馬に踏まれたと思い込んだ。端の間までみな騒ぎ立って、われがちに逃げようと、エイヤ、エイヤと押し合ううちに、大戸の扉を押し破り、門前に雪崩をうって溢れ出た。
 その人波が隣の町屋へも駆け込んだのか、今度は町屋の奥から騒ぎだした。
「馬だ。馬だ。」
 大勢が口々に叫んで、これまたどっと門前へ逃れ出た。その中には、馬に踏まれたと言って大声で泣く者があった。噛みつかれたと思った者も数多かった。
 騒ぎは数時間ほどで徐々に静まった。どちらの客にも怪我人があり、とりわけ高屋のほうに多かった。

 夜が明けてから、いろいろ調べてみたけれども、馬が入った様子はなく、近郷で馬が逃げたという話もなかった。奥の間の客が夢を見て、寝ぼけて口走ったことがきっかけで、この不思議な騒動となったのでもあろうか。
 驚き慌てる心には、山の木も恐るべき敵に見える。かの『徒然草』にも、「鬼になった者が京に上った」と人々が騒いだことが記されている。
 不思議の変は、人の心の動揺・混乱に呼応して生ずるものにちがいない。
あやしい古典文学 No.1120