『今昔物語集』巻第二十七「冷泉の院の水の精、人の形と成て捕らはれたる語」より

池から来るもの

 昔、陽成院の御所は、二条の北、西ノ洞院の西、大炊御門の南、油ノ小路より東二町にあった。その場所は後に小路が通り、小路の北側は人家が建ち並んだが、南側には池などが今も少し残っている。

 御所に人が住んでいた当時のことだ。
 夏の夜、西の対の屋の縁先で人が寝ているところへ、背丈が三尺ほどの小さい老人が来て、寝た人の顔を撫でまわした。その人は目覚めたけれども、恐ろしさのあまり何もできず、ただ眠ったふりをしていた。
 やがて老人は立ち去っていった。月の光を頼りにその方向を見やると、池の水際まで行って、ふっとかき消えた。その池は久しく手入れされておらず、浮草や菖蒲が一面に蔓延って、なんとも不気味なところだったので、『あれは池に棲む化け物にちがいない』と思われた。
 じっさい、それからは夜な夜な、誰かが顔を撫でられた。皆はしきりにこの怪事の噂をして、恐れ合った。
 すると一人の武勇を誇る者が、
「よし。おれが、その顔撫での化け物をつかまえてみせる」
と言って、縄を持って問題の縁先に独りで寝て待った。
 宵のうちは何も現れなかった。夜半を過ぎたかと思うころ、待ちかねてついうとうとしたところを、何か氷のような冷たいものが触れてきた。
 うっかり寝入ったとはいえ、心がけて待っていたのだから、反応は早い。はっと驚きながらも跳ね起きて捕らえ、縄でぐるぐる巻きに縛って、高欄に繋いだ。

 声をあげて人に告げると、みな集まってきた。火をともして見れば、たしかに背丈三尺ばかりの小老人で、浅黄の裃を着ている。縛られて、死にそうな顔で目をしばたたいて、ものを問うても返事もできない。
 しばらくそうしていたが、やがてすこし微笑んで口を開いた。
「盥に水を入れて、持ってきてくださらんか」
 そこで、大きな盥に水を入れて、老人の前に置いた。
 老人は盥の上に頭を延ばし、水に映る影を見ながら、
「我は水の精なるぞ」
と言うと、水に滑り込むように落ち入り、姿が見えなくなった。とともに、盥の水が増えて、縁からこぼれ出た。老人を縛った縄は、結ばれたまま水の中にあった。
 老人は溶けて、水になって失せたのである。皆、ただ驚き怪しんだ。盥の水は、こぼさぬように気をつけながら運んで、池に注いだ。
 その後、顔を撫でるものは来なくなった。
あやしい古典文学 No.1124