根岸鎮衛『耳袋』巻の九「その境に入りてはその風を堅く守るべき事」より

節穴

 旗本石川某が大御番を勤めていたころ、どこだかの宿場に泊まったことがあったが、それは激しく風雨の吹きすさぶ夜だった。
 宿の主人が、
「当宿では、こんな嵐のおりは、外へ人を出さないことになっております。人馬の賃銭さえ受け取りに行きません。お供の方々の外出も、かたくお止めください」
と言うので、同宿の大御番衆は、それぞれ家来に申し付けて外出を禁じた。

 ある人の中間(ちゅうげん)が、
「さきほど外で草履の銭を貸したので、返してもらいに行きたいのです」
と願い出たが、
「御主人からの命令ゆえ、なんであろうと出かけてはならない」
と、許されなかった。それで、いったんは引き下がったが、また再三同じことを申し出て、そのたび「だめだ」と止められた。
 結局あきらめたのか、次の間の葛籠(つづら)などを積んだ場所に横になった。しかし、その様子がなんとなく心もとなく、後刻、中間の様子を見に行くと、さっき寝ていた場所に姿がない。
 あちこち探しても見つからないので、宿の主人を呼び、火をともして隅々まで捜したけれども、やっぱりいない。
「それでは、外へ出たのかな」
 しかし、宿の主人は否定した。
「今夜のような大荒れの日、当地では必ず何か怪異が起こります。ですから御覧のとおり、出入口にはすべて厳重に錠をさしてあり、けっして出ることはできません」
 とはいっても、どこにもいないのは確かだから、不思議なことである。なおも火をともして見回ると、閉ざされた大戸の右の戸に、一寸ばかりの節穴があった。
 節穴が血にまみれて、その下の土間は血だまりになっていた。
「こんな穴から引きずり出したのか」
 妖怪のしわざの物凄さに、みな舌震いして恐れたのだった。
あやしい古典文学 No.1128