横井希純『阿州奇事雑話』巻之二「山父山姥」より

阿波の山女

 阿波の南方の山奥に、かつては山女というものを見ることがあった。これは、山姥のまだ若い姿なのかもしれない。
 ある木こりが、夜分、山小屋で茶を沸かしているところへ、山女が来た。見れば、化けているのかもしれないが、頭の先から足の先まで人間の女の形で、色が白く、黒髪長く、素っ裸で、美しかった。
 笑顔を作って火の傍へ寄り、
「茶を入れてあげようか」
と言う様子が色っぽいので、大胆な木こりは恐れもせず茶を入れさせ、それを飲んで平然と話などした。
 明け方になると、山女は名残惜しげに、
「また近いうちに、茶を入れに来るからね」
と別れを告げ、なにやら情を含んだ態で帰っていったそうだ。

 また北方山分で、ある猟師が、猪を獣みちで待ち伏せようと深山に入り、夜更けに朽木や枯れ枝で焚火をしていると、山女が現れ、火の傍に来て言った。
「火を貸してくれ。鉄漿(かね)を付けたい」
 猟師が、
「勝手に付けたらいい」
と応えながら見るに、長い黒髪の、色の白い、美しい女だ。
 しばらくの間に、歯を鉄漿で黒く染め、また言った。
「ここへ鹿を追い回して来たら、打ち殺してくれるか」
「たやすいことだ」
と引き受けたところ、すぐに鹿を追ってきた。それを殺してやると、山女は鹿を引き裂いて生肉にかぶりついた。
 猟師はぞっとして、『次はおれを襲うかもしれない』と思い、山女が鹿を食っている間に、用意の鉄弾を鉄砲に込め、火縄に火をつけて備えた。
 やがて鹿肉をあらかた喰い終って、
「さて、また頼みたいことがある」
と近寄ってきたところを鉄砲で撃つと、山女はかき消すように逃げ失せた。猟師も空恐ろしくなって、ただちに山を下りた。
 山女には、こんな恐ろしいものもあるようだ。
あやしい古典文学 No.1146