堀麦水『続三州奇談』七ノ巻「朝日の石玉」より

アホウドリ

 能登氷見の上日寺の観音は、石玉に乗って太田の浜に上がったとされる。そのとき、浜の石塊で損傷せぬように、周辺の石をすべて退けた。だから太田浜は、今でも小石一つとてないのだという。
 なるほど小石はないが、大きな鳥の死骸が多く目につく。
 これは「信天翁(アホウドリ)」だそうだ。人が喰えるような肉がないので、打ち殺して捨てるらしい。多くはまず犬が獲り、それを小児が戯れに殴り殺すのだとか。
「観音の慈悲の浜なのに、無用の殺生だね。鳥もまた、逃げればいいものを」
と言う筆者に、和荘平という老人が語った。

 アホウドリは「贅鳥」とも書く。人の贅肉のように、何の役にも立たないだからだ。
 元来この鳥は、ほとんど目が見えず、耳も聞こえない。それでも小魚を投げると寄ってくるのは、気配をわずかな勘で察知してのことだ。コウコウと鳴き声で呼び合うのも、勘で曖昧に呼応しているにすぎない。耳目で認識するのと違って頼りないもので、鳴き声をまねて呼び寄せ、捕らえるのはいたって簡単だ。
 形は鳩に似ている。ただし、たいそう大きい。羽毛はほとんど白い中に、薄汚い黒毛が少々混じる。勾玉の形をした、大きな黄色い嘴をもつ。その巨体を見るに、何を餌として命を保つのかと訝しいが、実のところ、わずかに鴎が取り落とした小魚を喰い、人の網からこぼれ出た細鱗を嘗めて、世の楽しみとしているのみだ。
 しかし、そんなアホウドリの中に一羽、小賢しいものがあって、かの観音に「我が目を明けさせたまえ」と祈った。すると、ありがたい仏力は魚鳥にも及び、たちまち目明きの鳥となったのはよかったが、数日にして痩せ衰え、今にも死にそうな有様となった。
 その鳥は、仲間のアホウドリに勘を通わせて伝えた。
「君たちは、今の身をただ楽しめ。私のような願いを、けっして持つべきではない。私は、目が明いたらさぞ楽しかろうと思った。ところが、実際にはひどいもので、絶望のあまり、今まさに死のうとしている。もとより我々は、死に瀕してひときわ悲しく鳴く。それは、人が死に望んで善言を吐くのに等しいのだから、よくよく聞き置くがよい。
 まず、目が見えると、ものを恐れることが甚だ多くなる。人の姿に脅え、大魚に遇っては逃げ回る。また、鳶や烏などが多くの食物を得るのを見て羨み、妬んで、怒りの炎に捉われる。しきりに奔走しても、自分は小鳥ほどの餌も得られないことに心を痛め、悲観は骨にまで至るほどだ。空高く飛ぶ鸛(コウノトリ)や鶴を見ては、おのれの羽の力の及ばないのを怨み、水に潜る鵜を見ては、身の重いのを嘆く。ただ毎日、恐れと怨みのために苦しむばかりだ。耳も目もなかったころには、餌の気配に誘われて、人の傍だろうが大魚の目の前だろうが知らずに走り行き、鰯一つ得た時には、天地の間にこれ以上の楽しみはないと思えた。それと比べるにつけても、今は後悔かぎりない。
 奇跡の僥倖も、しばらく日を重ねれば、身も心も疲れ、目には埃が入るばかりで、その悲しみは言うべくもない。願いが叶う喜びは、叶った一時だけのもので、たちまち苦しみに変わる。君たちは天性のままに楽しめ。必ず、あらぬことを願い求めてはならない」と。
 この遺言から分かるように、アホウドリの天性は、死に及んでも楽しさを知る。仏の慈悲心には懲り懲りの鳥なのだ。一見無残な死鳥の姿に、もっともらしい感慨を起こしてはならない。

 老人はこのように教えると、杖にすがって去っていった。
あやしい古典文学 No.1154